子供をプロにする近道、米大学の夏キャンプへの参加

ゴルフ好きな父親にとって、大きな希望があるとしたら、それは子供が、ゴルフのプロになること。

そんな夢への近道がある。それは夏の間、全米各地の大学ゴルフ部が実施する、夏のゴルフキャンプへの参加だ。

最も人気のあるキャンプ。その一つはASU(アリゾナ州立大)の、サンデビル・ゴルフキャンプ。

何しろ此処は条件に恵まれている。人気者ミケルソンの出身校。キャンパス内に自分たちのゴルフ場(カーステン・ゴルフコース)がある。ピート・ダイ設計の、堂々たる18ホールだ。それだけではない。手前と奥、双方にティグラウンドを持つ、全長三百数十ヤードの、広大な練習場もある。更なる好条件。それはフェニックスの空港(スカイハーバー)から至近なこと。

対象は中高校生(12歳から18歳迄)。ここで一夏に、数度のキャンプを実施する。期間は3泊4日が基本。その間に技術の習得向上は勿論。将来カレッジに進む上で、奨学金を得るためのノウハウ。そこまで指導する。そして夕食後は、ゲストを招いての講話。私もアリゾナに滞在している時は、その都度ゲストスピーカーを、引き受けてきた。

奨学金を得るノウハウ。これに関しては、子供たち以上に、親御さんにとって切実な部分になる。4年間学資を全額払うか。それともゴルフが上手いことで、それが免除されるか。大きな違いがあるからだ。

一日の日程は6時半起床。10時消灯。午前中に技術の指導。午後ラウンドレッスンで、コースマネジメント他を指導。昼食はバーベキュー。宿泊は大学のdormitory寮。米の夏休みは概ね三ヶ月。その間寮は空いている。空港への送迎は、ゴルフ部のバスで行える。それが空港に近いことの利点。

最近女子高校生の台頭が著しい日本。その日本で、子供をゴルフのプロにする。それに要する経費は、他のスポーツとは比較にならない。かつては「5千万から8千万円」と言われた。

プロの深堀圭一郎。彼の父親のインタビューをしたことがある。彼が実に興味深い話をしてくれた。

「息子が大学医学部で学んだ場合。もしかして一億以上の学費が必要かも知れない。同じことではないでしょうか」。

子を持つ親にとっては、医者もゴルフのプロも、同じく大切な将来選択。

高校生に、パッティングの指導をする、ASU助監督時代のミッキー。米には、ゴルフ場を所有する大学が、全国に点在する。そこでキャンプを実施できる。圧倒的に有利だ

高校生に、パッティングの指導をする、ASU助監督時代のミッキー。米には、ゴルフ場を所有する大学が、全国に点在する。そこでキャンプを実施できる。圧倒的に有利だ

この写真は、かつてASUの助監督だった、ミッキー・ヨコイ。彼がジュニアキャンプの参加者を、指導するモノ。ミッキーは、加州サンタモニカ生まれの日系人。その後UCLAを卒業。暫くはASUの助監督。現在は加州に戻り、ロングビーチ州立大のゴルフ部監督。まだ実現はしていない。だがミッキーは、このサマーキャンプを、日本で実施することに、大きな希望を持ち続けている。それが実現した時。日本の少年少女ゴルフ育成は、異なるレベルに、到達するかも知れない。

またこの手のサマーキャンプ。それはカレッジだけには留まらない。メーカーや自治体も、積極的に実施して来た。日本との違いがあるとしたら、それは廉価で、仰々しくないことだ。

それより何より、ミケルソンやタイガーが学んだ。有名大学ゴルフ部が、夏の間中高校生に門戸を開き、ゴルフの底辺を拡大。レベルアップを図る。それに参加することで、子供達がゴルフを上達させ、可能性として、ツアープロになる機会も増える。ゴルフ好きの父親にとっては、何ものにも勝る関心事のはずだ。

なおいま現在、ASUゴルフ部監督(英語ではMen’s Golf Head Coach)は、ティム・ミケルソン。そう、米ツアーの顔、フィル・ミケルソン。彼の弟が2011年から務めている。当然のことながら、キャンプ中、フィル・ミケルソンと、携帯でのchatも可能になる。世界に繋がるサマーGolfキャンプ。日本からも、参加する価値はあるはず。

米には、各大学のゴルフ部監督が、加盟する協会がある。そこの調査によると「40%以上の大学は、夏のキャンプを実施している」と言う。中身は数泊から一日のモノ迄。地域によって異なる。

「かつてはもっと隆盛だった。08年のリーマンショックのダメージ。それが未だ残っています。日本での開催。要望があれば、喜んで出掛ける監督は多いはず。何しろ2020年五輪は東京。みんな関心を大きくしています」と語るのは、全米カレッジゴルフ監督協会のグレッグ・グロストCEO。

繰り返すが、ツアーの金看板が育った、大学が主催する、子供達の夏のキャンプ。魅力がないはずはない。

(July.28.2014)

優勝マキロイ25歳。五輪連続金メダルの、確率上げる

スコットとローズは34歳。バッバ・ワトソン36歳。タイガー38歳。ミケルソン43歳etc。

マキロイ25歳。スピース20歳。日本の松山英樹22歳。

 先週月曜14日。全英オープン会場ホイレークで行われた、2016年リオ五輪の記者発表。右から2人目が、ドウソン会長。 その左がボウトウ副会長。世界中の記者が集まる場所だけに、多くの質問が飛んだ(R&A提供)

先週月曜14日。全英オープン会場ホイレークで行われた、2016年リオ五輪の記者発表。右から2人目が、ドウソン会長。
その左がボウトウ副会長。世界中の記者が集まる場所だけに、多くの質問が飛んだ(R&A提供)

先週の月曜14日。全英オープンの会場、ホイレークでIGF(国際ゴルフ連盟)の、記者発表が行われている。

主席者は、ピーター・ドウソン会長(R&A専務理事)、副会長のタイ・ボウトウは、米ツアーのナンバー2。2008年秋の、コペンハーゲンIOC総会。それ以前からゴルフを、112年ぶり五輪種目に復帰させる。その根回しに、東奔西走して来た2人。この日の発表には、IGFのスカンロン専務理事も加わった。

発表の中身は、既に内定していたことの確認作業。

出場は男女とも、それぞれ60人。4日間72ホールのストローク競技で、金、銀、銅メダルを決定する。

選考のベースは五輪ランキング。実質的には、現行の世界ランキング(WR)と重複する。その上でリオ五輪直前の、2016年7月11日。これが最終ランキング。出場は男女とも最大一カ国2人。だが、この時点でトップ15位以内に、多くのランク者を持つ国は、最大4人迄の、出場が可能になる。

開催国ブラジルは、ランクに関係なく、男女ともそれぞれ一人。また五つの輪が示す五大陸。アフリカ、アメリカ、アジア、欧州、オセアニア。ここから一人の有資格者も出せない大陸。それがあった場合は、五輪憲章に従い、一大陸最低一人の特別出場は保証される。

さらにドウソン会長が、強調したこと。それは「この先2年の間に、国籍を変更すること」に対する警告だった。五輪種目への復帰が決定した頃。女子プロの最強は、台湾のヤニ・ツェンだった。これは香港のメディアが報じたニュース。北京政府は彼女に、国籍変更を条件に、分厚い札束を、提示している。従ってIGFとしては、当然の予防線になる。

さて骨子が決まれば、次の楽しみは、出場者の顔触れ。そしてメダル候補の予想だ。リオ五輪は二年後(8月5日から21日迄)。主競技場はエスタジオ・ド・マラカナン。終わったばかりの、サッカーW杯。その熱狂を、世界に発信したスタジアム。一方のゴルフ場は、昨年5月着工した新設コース。受注したのは、米の女子プロ、エミー・オルコットを中心とした、米の設計グループ。

従ってコースは、まだ全貌を現していない。だが出場する顔触れは、おおよそ予想できる。

2年後である。ミケルソンは、チャンピオンズツアーが、視野に入る45歳。タイガーにしても40歳。2人合わせ、ツアー勝利数は121。そのうち合計メジャータイトルは19箇。それを積み重ねて来た、過去四半世紀の金看板二枚。だがこの2人が代表に選ばれる確率は、非常に低い。彼らにとっては、五輪復帰の時が遅すぎた。同じように、飛ばし屋ワトソンも38歳。さらに世界ランク一位のスコット。そして同3位のローズとも、36歳になる。一般的に競技者として、峠を越す微妙な年齢に達する。

それに比べ、全英オープン優勝のマキロイ。今回のゴルフ五輪復帰は、彼のために、用意された筋書き。そう思わせる程のタイミング。

2年後は27歳。6年後の東京は31歳。競技者としては、脂がのりきる年齢。不安材料は見当たらない。

尤も2年前ロンドン五輪後。マキロイは、五輪出場に消極的。そんな話をしていた。理由は母国の複雑な立場。北アイルランドは英国の一部。とは言え民族としては、アイルランド人。その辺りの背景に、言及したもの。ただし間近になり、五輪熱が高まれば、本人も当然その気になるはず。そして31歳で迎える東京。そんなことで、マキロイには二大会連続の、金メダル。その可能性が頗る高い。

リオ、そして東京とも28競技。この2大会の結果。そしてその先の開催都市に拠っては、ゴルフが五輪から外されることも、当然考えられる。そうなった時、2024年以降、ゴルフが28種目から消える可能性。そうすると、ゴルフの金メダリストは、マキロイ以降、暫くは途絶えることになる、と言う論法。それにしても27歳と31歳で、五輪を迎える幸運。タイガーもミケルソンも、羨ましいに違いない。

一方の女子。現在世界ランク一位のステイシー・ルイスは29歳。リオは何とか持ち堪えるかも知れない。だが東京は、非常に困難なはず。

代わって、年齢的に有利なのが、ミッシェル・ウイ24歳。トンプソン19歳。そしてニュージーランド国籍の韓国系、リディア・コー17歳。ウイに関しては、既に昨年末韓国から、米に国籍を移している。従って彼女の場合、国籍変更の警告には、無関係になる。

ゴルフのメジャーは、一年に4つ開催される。チャンスは、その分だけ多くなる。それに比べ、サッカーW杯同様、五輪も4年に一度の開催。競技者としての、適齢期に当たるか外れるか。それで個人の運命が、大きく左右される。

二年後の五輪要項が、発表されたその同じ週に、全英オープンで優勝したマキロイ。来年のマスターズを獲れば、生涯グランドスラムが達成される。そして2016年に迎えるリオ五輪。開催前から絶大な、アドバンテージを取った25歳。彼の五輪金メダルへの、期待は膨らむ一方だ。

(July 22.2014)

本物の19番ホール。ゴルフの幅と、楽しさを広げる

 ワイングラス片手に、ベランダから声援を送る、他のゴルファー達。緯度の高い、北米大陸やスコットランドは、夏の日没が遅い。そのため19番ホールでの、遊びばかりか、1日36ホールとか、54ホールを、楽しむゴルファーも多い

ワイングラス片手に、ベランダから声援を送る、他のゴルファー達。緯度の高い、北米大陸やスコットランドは、夏の日没が遅い。そのため19番ホールでの、遊びばかりか、1日36ホールとか、54ホールを、楽しむゴルファーも多い

ニューヨークは、実に変化に富んだ州。最南端のマンハッタンは、商業とショービジネス等で、世界をリードする。そこから、ホワイトプレーンズ方向へ、北上する。其処にはウイングドフット、ウエストチェスター等、名の知れたゴルフコース。ノルウッドCCは、その中の一つ。ここを私が訪れた理由。それは「本物の19番ホールがある。是非取材しておいたら」と、記者仲間に勧められた結果。

マイアミから、最北のメイン迄。大西洋岸を走る、米国最大の大動脈が、95号線。途中にはワシントンDCはじめ、ニューヨーク、ボストン等、主要都市が並ぶ。一方で沿線には、有名ゴルフ場も多い。オーガスタ・ナショナル、パインハーストNo.2、ザ・カントリークラブなど。

 マンハッタンから、ブロンクスを更に北上すると、古く伝統的なゴルフ場と、多く出会える。ノルウッドCCは、その中の一つ(State Farm Road Atlasから)

マンハッタンから、ブロンクスを更に北上すると、古く伝統的なゴルフ場と、多く出会える。ノルウッドCCは、その中の一つ(State Farm Road Atlasから)

西の太平洋岸を、南北に走る101号とともに、私が最も多く、ドライブして来たのが、この幹線道路。渡米して暫くは、飛行機とレンタカーの組み合わせ。それを愛車で50州走破に切り換えた。唯一無二の理由。飛行機では、上空から眺めるだけ。それに比べ、ドライブなら、より多くの(興味あるゴルフ場)を、訪れることが可能になる。そのためだった。

渡米して直ぐの頃、多く訪れた町の一つがボストン。米国を代表する新聞、ボストングローブ紙のゴルフ担当、ジョー・コンキャノン。彼は陸上記者でもあり、当然ボストンマラソンの顔。そのため何度も来日。東京での世界陸上や、青梅マラソンを取材した。大の親日家は、私に対しても協力的。多くの情報を、提供してくれた。それらはゴルフだけではない。レッドソックスの取材から、95号線沿いの、酒と食い物の旨い店まで。

ノルウッドCCを紹介してくれたのも、そんなことでジョーだった。

当時の私は、世界トップ百コースの、選考国際評議委員を拝命する前。米ツアー取材の駆け出しに対しても、米のゴルフ場は、無料でコースを、体験させてくれる。ただしジョーばかりか、ニューヨークタイムズの記者たちは、飲食にはちゃんと、カネを払う。日本の一部ゴルフ関係マスコミ。彼らのタカリ根性とは、決定的に違う。

彼の紹介で出掛けたノルウッドCC。ハウス二階のバーから、見下ろす、打ち下ろしのパー3。それが、このゴルフ場の、19番目のホールだったのだ。

19番ホールとは、普通ハウスのバー、またはラウンジのこと。一日の勝負を終え、其処でベットの精算をする。言わば(追加の大一番)。そんな洒落もあり、彼らはこう呼ぶ。ところが此処ニューヨークの、ノルウッドCCには、本物の19番目の、ホールがあった。

「ベットは概ね、どちらかが負ける。その時精算をした後、負けた方が、もう一勝負を願い出る。その時通常の18ホールは、埋まっている」。

その要望に対応出来るのが、19番目のホール。ハウスの目の前。パー3だから、直ぐに決着がつく。加えてハウスで飲食している、他のメンバー達の、声援が届く。日本のカントリークラブと違い、彼らのクラブは、メンバーとそのゲストが主体。お互いが顔見知り。僅か十数分のショーに、当事者以外にも、多くが熱狂する。ゴルフの幅と、楽しさを広げる。

この豊かな遊び心。そしてスポーツ文化の違い。米ツアー取材の駆け出しには、目から鱗が落ちたことを、記憶している。更に彼らの発想の豊かさ。それは19番目のホールがなくても、19番ホールのゴルフを、楽しむことだ。

私たちは、結構多く無料招待の、ゴルフ旅がある。その一つは感謝祭後の秋の、ゴルフメディア・クラシック。これはスコッツデールやベガスで、ゴルフ三昧の一週間。一方でカナダ・オンタリオ州からの招待も多い。此処での一週間。宿泊はトロント。ゴルフ場は郊外の新設中心。そんなことで、往復はバスになる。北極圏に近い緯度の高さ。そのため夏の太陽は、なかなか西に沈まない。

或るコース(この写真の)でラウンドが終了。名物のバッファロー・ステーキと、カナダビールで満腹になっても、まだバスが来ない。そんなタイミングで、誰かが大声を上げた。

「どうだい。19番ホールを、遣ろうじゃないか?」。

20人の参加者。勿論反対するモノなどいない。ハウスの直ぐ近くの12番ホール。これが幸運にもパー3。

ルールは、クラブ一本でボールは2個。競技はニアピン。我々がスタンバイすると、他のゴルファー達も、騒ぎを聞きつけ、ベランダに集まる。そして一打ごとに、ヤジ声援を送る。夏のぎらぎらした太陽の下。これは、まさに子供心に帰る、楽しさだった。

同じ19番ホールだが、これは技術的に、私たちとはレベルの違う話。スコットランドのミュアフィールド。正式名称は、The Honorable Company of Edinburgh Golfers。私が初めて訪れたのは1979年秋。当時の責任者は、通称キャプテン・ハンマー。途中道を間違えたこともあり、到着時間が少し遅れた。ラウンドは許可された。だが、その前に「スタート時間に遅れたら、ゴルフは失格。そのことを肝に銘じなさい」と注意を受けた。いまでも忘れない教訓。

87年だったか。それとも92年だったか。全英オープン終了後の日曜日。トム・ワトソンやベン・クレンショウ。30代だった彼らが、ミュアフィールドの、ハウス前テラスで一杯。陽はまだ高い。誰かが「日没迄数ホール」と言い出した。首を横に振るモノはいなかった。ただし実現はしなかった。(厳しいオヤジ)キャプテン・ハンマーの耳に届いたことで、中止命令が出たためだった。

これは英国の記者仲間から、後日届いた話。私たち、アベレージゴルファーばかりか、四大タイトルを獲る、一級のプロでも、18ホールで満足しない幼心。更に陽があるうちは、ボールを打ち続けたい遊び心。それが19番目のホールの、発想の原点なのかも知れない。それにしても、ゴルフとは、興味深いゲームだ。

(July.15.2014)

Old Courseと、Pebble Beach。名優が選ぶ最後の舞台

今月1日、米ツアー、グリーンブライアーの会場で「来年の全英オープン出場」を発表した、現在64歳のワトソン。とてもそんな年齢には見えない(courtesy by R&A)

今月1日、米ツアー、グリーンブライアーの会場で「来年の全英オープン出場」を発表した、現在64歳のワトソン。とてもそんな年齢には見えない(courtesy by R&A)

人間国宝の吉右衞門。彼は二年前の春、雑誌のインタビューで、次のように話している。

「八十歳で、勧進帳の弁慶を舞う。それが役者としての最終目標」。歌舞伎座が新築された。そのタイミングでの記事だった。

吉右衞門と歌舞伎座。これに匹敵するゴルフの名舞台。数多ある中でも、特筆されるのはペブルビーチ。もう一つはゴルフの聖地、と言われるオールドコース(セントアンドルーズ)だ。

今年の全英オープンは来週。ホイレークのロイヤル・リバプール。それを前に、主催のR&A(ロイヤル&エンシェント・ゴルフクラブ・セントアンドルーズ)は、2015年の予定を発表した。それも米国で。

その時65歳になっているトム・ワトソン。「彼が全英オープンに出場する」。その話だった。

四大タイトル8箇のワトソン。そのうち5つが全英オープンでのモノ。これはハリー・バードンの6勝に続く史上2位タイ。記憶に新しいことだが2009年。ワトソンは59歳で、全英オープンのプレーオフに残っている。息の長さは、驚くばかりだ。

そのワトソンが、早々と出場を決めた、来年の全英オープンは、舞台がオールドコース。それが一つの理由だった。

ワトソンが初出場した全英オープンは、遠く1975年。場所はカヌースティ。その後事故で、片腕と片目を失った、豪州のジャック・ニュートン。彼とのプレーオフを制した末の勝利だった。その全英オープン初出場から数え、来年は40年になる。

ワトソンにとって、全英オープンを代表する勝利。それは1977年のターンベリー。この時は西部劇映画の題名を真似(真昼の決闘)との表題が、米英の新聞紙上に躍った。後半の36ホール。ワトソンとニクラスが最終組で直接対決。史上希に見る激闘を展開。最終的には268のワトソンが、269のニクラスを、最少打数差で破っての優勝だった。ただしワトソンの5勝に、オールドコースでのモノはない。

それでも初出場での初優勝から40年目。その舞台がオールドコース。これ以上の設定はない。其処で早々と、一年後の日程が、発表された訳だ。

四大タイトル18箇のニクラス。彼には2種の公式ジャケットがある。一つはマスターズの勝者として、与えられたグリーンジャケット。もう一つがこれ、メモリアルのジャケット。左は筆者

四大タイトル18箇のニクラス。彼には2種の公式ジャケットがある。一つはマスターズの勝者として、与えられたグリーンジャケット。もう一つがこれ、メモリアルのジャケット。左は筆者

ワトソンは1949年9月4日生まれ。ニクラスは1940年1月21日生まれ。2人の年齢差は9歳。(ちなみにニクラスとパーマーは11歳違い)。その年長ニクラスが、かつて最後の舞台に選んだコースが、2つあった。それはオールドコースであり、ペブルビーチだった。

2005年の全英オープンも、オールドコースだった。この時65歳に達していたニクラス。5年振りの全英オープン。勿論36ホールで終わっている。それでも帝王ニクラス最後の姿。ゴルフを理解する、スコットランドの人々は熱狂。第二ラウンドが行われた金曜午後。18番に架かるスイルカン橋上で、繰り返し手を振るニクラス。この時同組で、プレーをする栄誉に浴したのが、ワトソンだった。

それより前、西暦二千年は、ゴルフ界にとって、王冠の引き継ぎが、行われた年だった。

それ迄、長いことNicklaus throne(帝位)を保ってきた彼に代わり、若い25歳のタイガーが、全米オープンの、初タイトルを獲得。その同じチャンピオンシップで、ニクラスが引退した。その舞台が、モントレー半島17マイルドライブ内の、ペブルビーチだった。

ラウンド後、18番グリーン奥で、多くの記者に囲まれる夫ジャック。その姿を、目を真っ赤にして見守る賢夫人バーバラ。メモを取りながら、カメラのシャッターを押す我々の多くが、目を潤ませていた。

鮮烈なデビューは、華やかで美しい。だがそれ以上に重要なモノ。それは集大成となる、引退の舞台だ。海外にはそれが多い。前述2コースだけではない。全米オープンでは、今年の舞台になったパインハーストNo.2。そしてオークモントやメリオン。全英オープンでも、灯台の見えるターンベリー。サンドイッチの愛称で親しまれる、イアン・フレミングの、ロイヤル・セントジョージズ。そしてミュアフィールド。それらの中でも、特別な存在が、オールドコース。そしてペブルビーチ。世界中のゴルファーが、憧れる永遠の名舞台。

前述した通り、ニクラスに比べ、ワトソンは競技者としての息が長い。そんなことで、2015年が、彼にとって最後の全英オープンになる。そのことは断言できない。とは言え、65歳を迎えるワトソンが、2005年のニクラスに続き、オールドコースに登場する。それは「80歳で弁慶を舞う」吉右衞門に匹敵する心意気。ファンにとっては、またとない贈り物になる。

比較しても詮ないこと。とは言え、それに比べ、日本には、これらと肩を並べる、舞台も役者もが、余りにも少ない。

2年前の日本オープンは、沖縄だった。本土復帰40周年の記念行事の一環。このとき特別推薦された一人は、70歳の青木功。彼は36ホールを160(79,81)のスコアだった。それ以上に青木では、歴史を語る知性が不足していた。まさに役者として劣った。これでは観客は、熱狂も感謝もしない。歴史も積み重ねられない。

ペブルビーチに並ぶオールドコース。その名舞台でニクラスに続き、ワトソンも最後の花道を飾る。一年先のこと。だが日本では、絶対に得られない、心の高ぶり。読者は、今から楽しみにしているといい。

余談を一つ。1975年の初夏。私は初めてスコットランドを旅した。F1グランプリ取材の合間に。5月1日オールドコースでラウンド中に、雹が降ってきた。(一日に四季がある)と言われるスコットランド。早速の洗礼だった。翌日乗り合いバスで、カヌースティへ移動。B&Bに一泊。翌日地元の人達とラウンドした。ワトソンの優勝まで、2ヶ月半。北国だったこともあり、フェアウエイの芝は、薄かった。そのため地元のゴルファーは、フェアウエイからの第2打以降も、その都度ティアップ。芝を保護するため。それに従い、戸惑いながら私も、毎打ティアップして打ったことを、記憶している。

(Happy Tanabata Evening)