スーパーボウル優勝と、全米オープンの舞台シアトル

 今年は男女の全米オープンを、同一コースで連続開催したUSGA。来年はスーパーボウルとの、組み合わせで,数十万の観客を集めるべく、仕掛けている。ゴルフ界だけの発想から、抜け出せない日本とは,大きな違いだ(photo courtesy of USGA)

今年は男女の全米オープンを、同一コースで連続開催したUSGA。来年はスーパーボウルとの、組み合わせで,数十万の観客を集めるべく、仕掛けている。ゴルフ界だけの発想から、抜け出せない日本とは,大きな違いだ(photo courtesy of USGA)

日本人に対し、シアトルを有名にしたのは、言わずもがなイチロー。

カナダ国境に近い、北国の港町。ここではイチローが所属した、マリーンズ。そしてNFLのシーホークスが、スポーツ好きの住民を、楽しませている。

チーム名マリーンズは、船乗りにあやかったモノ。所属はアリーグ西地区。今季は87勝75敗で、地区3位。一方のシーホークスは、初のスーパーボウル優勝を、今年達成している。都市全体としての、スポーツ熱は高い。

北太平洋が、瀬戸として大きく切れ込んだ地形。そこに2つの町が共存している。シアトルともう一つは、南に位置するタコマ。来年の全米オープン会場は、チェンバーズ湾ユニバーシティプレースの公営コース。それも開場して、未だ間のない新設。そのコースは、タコマの南に位置し、有名な活火山レイ二ア山が遠望できる。ここで来年6月予定されている全米オープン。それは多くの意味で、新しい実験の場になる。

ワシントン、オレゴン両州は、一般的に「北西太平洋地区」と呼ばれる。

米でゴルフが大衆化してきた中心地。それはフロリダ、ハワイ、加州、そしてアリゾナなど。南に位置する、サンベルト地帯中心。気候的な理由もあり、北西太平洋地区は遅れた。1895年から続く全米オープン。それが来年初めて、この地区で開催される。

それだけではない。入り江に面した、このゴルフ場は、かつて百年以上も続いた、砂利の採掘場だった。ただし土地は平坦。そこへ名手トレント・ジョーンズJr.の手で、スコットランドの、リンクスを彷彿させる、素晴らしいチャンピオンシップ・コースが誕生した。言わば廃物利用された土地。これが大きな特徴。

英国ばかりか、米国もゴルフ場は公園である。従ってこの新設コースも公園の一部。そこでの売りは「スーパーボウル王者の町で開催される、ゴルフの全米オープン」。それを一言で表す写真がこれ。「スーパーボウルと、全米オープン2つのトロフィー」である。

アリゾナの記者仲間で、ラジオのパーソナリティでもある、旧知ビル・ホフマン。彼も「この偶然は滅多に起きない」と、期待を大きくする。

それにしてもトレント・ジョーンズJr.は、秀逸な仕事をした。海外の場合、設計的に優れれば評判をとり、ゴルフ場は賑わう。市当局の話だと「開場以来予定を上回る、一般入場者が続いている」。

全米オープンの前売りは、一年前に売り出す。例に漏れず今回も、7月には発売を開始している。

市当局の全米オープン担当者に拠ると「好調に捌けています。29年連続の切符完売は、まず間違いありません」と、胸を張り、目を細める。ちなみに28年連続完売となった、今年のパインハーストNo.2コース。この時は男女の全米オープンを、同じ舞台で2週連続開催した。その結果の入場者数は「併せて約34万人。そのうち男子のオープンは30万人」(USGA)。今年の日本オープンが「よく入った」と言われて2万9142人。単純計算でその十倍に達する。

ゴルフもフットボールも、ショービジネス。観客が溢れれば、会場全体が熱狂。さらにテレビを通して,興奮が全世界に伝わる。観客の増加は、そのままマーチャンダイズ(土産品)の売り上げに繋がる。同時に大会期間中の宿泊、航空機、地域内のレストランビジネス。またこの辺り、古い上質のコースも多く、それらが遠来の客で賑わう。

日本のゴルフ観戦は日帰り。一方国土の大きな米は、数泊する。そして観戦だけでなく、その期間に自分でも、ゴルフをし、仲間と食事を楽しむ。そんなことで地元に、大きなカネが落ちる。全米オープンは、経済効果も大きいのだ。

日本のテレビを、私は積極的には見ない。それにしても、この手の話。全米オープン期間中に、日本のテレビが、何処まで伝えるか。

コースのヤーデージ。パー4は軒並み5百ヤード前後。期日は6月18日第一ラウンド。最終21日は、例年通り、父の日になる。

1895年の第一回以来、USGA(米国ゴルフ協会)が固執して来た、古い伝統あるクラブでの開催。タイガーの出現もあって、それが公営コースに移ったのが、2002年ベスページ。それでもベスページは、古い歴史を持つ、ティリングハストの作品。百数十年の歴史があった。その歴史が来年、さらに新しい方向へ向かう。それは廃物利用された砂利採掘場。そこに新設された公営コースでの開催。これがゴルフ界の、最前線を走る、全米オープンのビジネスなのである。

説明する迄もなく、シアトルタコマ国際空港へは、日本からノンストップ。優勝争いの予想は先のこと。日本のゴルフ好きには、有利に熱狂に加われる、全米オープンになることは、間違いない。

(Oct.27.2014)

全英オープンの顔交代。ピーター・ドウソンの16年

在任中、数々の新しい仕掛けを、成功させてきたドウソン。彼のリーダーシップで、今年の全英オープンは、観客数も21万人を超えるなど、大成功だった

在任中、数々の新しい仕掛けを、成功させてきたドウソン。彼のリーダーシップで、今年の全英オープンは、観客数も21万人を超えるなど、大成功だった

昨日終わった日本オープン(会場は千葉CC梅郷)。これらの会場選定を巡る利益誘導疑惑。それを私は、週刊新潮で、素っ破ぬいた。07年連休のことだった。

日本ゴルフ界の、薄汚いスキャンダル。それはそのまま、世界に知らせる必要。全4頁の記事の英訳は、結構長いものになった。それをニューヨークタイムズなど、英米のマスコミや記者仲間。ニクラスやジョニー・ミラーたち、影響力を持つベテラン。そして当然ながら、USGAとR&Aにも送った。当時USGAの専務理事は、デビッド・フェイ。彼らの中で、いの一番に返事のメールを、送って寄越したのは、R&Aの専務理事、ピーター・ドウソンだった。

彼は基本的に、他人を直接批判することはしない。彼は次のように、自説を書いてきた。

「ゴルフの世界は、その様な誘惑が強い環境。一人々々が注意する必要がある」と。

そのドウソンが、来夏の終わりに、代表権を持つ16年の専務理事職から、引退する。来年の全英オープンは、オールドコース。そこはトム・ワトソンの、最後の舞台になることも、決まっている。ドウソンもその時、同じように表舞台から降りる。

全英オープンの顔として、責任を負って来た、彼の16年が終わる。その間の数々の業績。その中でも特筆されるのは、数百年のゴルフ史の流れ。それを大きく近代化させたことだった。

ゴルフを五輪種目に、復帰させたこと。さらには260年続いた、男だけのクラブR&Aに、女性を加えるなど、ゴルフを、時代に合わせて、改革改良させた。これらは彼にとって幸運だったが、一方でドウソンだったからこそ、達成できた、高い目標でもあった。

08年のIOC総会は、夏の終わり。デンマークのコペンハーゲンで、行われている。1904年のセントルイス以来、112年ぶりで、ゴルフの五輪復帰が決まった時だ。この時競技者として、プレゼンターは、当時メジャーの主役だった、アイルランドのハリントンと、冬季五輪王国、ノルウエイが生んだ、女子メジャー勝者、スサン・ペッテルソン。そして未だ十代。ゴルフの未来の夢を語れる年齢の、ミッシェル・ウイ。4人目はその年16歳で、全英アマチュア選手権で優勝した、イタリアのマッテオ・マナッセロ。その同じ壇上で、全体を締めたのが、米ツアーのNo.2タイ・ボウトウと共に、ドウソン。彼らは国際ゴルフ連盟(IGF)の、会長と副会長でもあった。

この作業。当然のことながら、IOC総会の、何年も前から計画され、根回しされて来た。その時点から、フロリダ州ポンテべドラ(米ツアーのHQ)のボウトウと、綿密な具体策を練ってきたのが、ドウソンだった。

2016年のリオ。ゴルフの舞台は、コース造成の段階で、早くも複数のトラブルに直面している。とは言え、次の五輪2大会で、ゴルフが正式種目になる。この事実は大きなインパクトだ。

そのドウソン。最近では2010年秋。来日している。この年うぶ声を上げた、アジアアマチュア選手権。それを指揮するためだった。その秋ジャンボ尾崎の、世界ゴルフ殿堂入り発表があった。忙しい時間を縫い、ドウソンはその席にも、姿を現している。全英オープンの責任者は、世界のゴルフの、顔でもあるのだ。

世界を知るビジネスマンが、来秋以降R&Aを牽引する

世界を知るビジネスマンが、来秋以降R&Aを牽引する

そのドウソンの、後継者に決まったのは、54歳の英国人。マーチン・スランバース。バーミンガム大等、複数の大学で、機械工学と経済学の学士号を取得。卒業後はサロモン兄弟社の、ロンドン、香港に勤務。アジアと欧州の、財務責任者。その後ドイツ銀行にヘッドハントされた、国際派ビジネスマン。

来年3月、R&Aに加入。それからドウソンが引退する迄の、約半年オーバーラップさせて仕事をする。そして2015年10月1日、R&Aの次の専務理事として、本格的活動を開始することになる。

言う迄もなく、日本のゴルフ協会JGAは、R&Aの傘下。来年以降は、そんなことで新専務理事の、影響を受けることになる。

(Oct.20.2014)

 

帝王74歳日本滞在22時間。自家用ジェット機。世界を飛び回る

バギーは自分で運転する。そして必要な場所で頻繁に停止。担当スタッフに次々指示を出す。この時のニクラスは、かつて競技をしていた時と、同様の厳しい表情になる

バギーは自分で運転する。そして必要な場所で頻繁に停止。担当スタッフに次々指示を出す。この時のニクラスは、かつて競技をしていた時と、同様の厳しい表情になる

Flying Golden Bear(空駆ける黄金熊)。メジャー18勝の、帝王ジャック・ニクラス。彼は74歳の今も、世界を飛び回っている。いま彼のビジネスは、ゴルフのプレーではない。ゴルフ場の設計。その数、既に世界38カ国で391。地球上の総ゴルフ場は約3万2千。その中に占める、これだけの数。それをニクラスが手掛けたことになる。その受注は、世界中からどんどん続く。それをこなす。そのためには地球を、飛び回らなければならない。

その強行日程を可能にするのが、自家用ジェット機。70億円はするガルフストリーム「Air Bear」。ニクラスのニックネームは、黄金熊Golden Bear。そこから名付けたモノ。

ちなみに、9月末からの約2週間。この間に動いた旅程。まず自宅のある米フロリダを出発。最初の目的地は、ライダーカップの舞台、スコットランド。そこでは昼も夜も引っ張りだこ。公式の午餐や晩餐。それらの席での写真撮影。その中には、007のショーン・コネリー。元F1世界王者ジャッキー・スチュアート達、代表的なスコットランド人。終了を待って、次トルクメニスタン。ここも原油のお陰で、ゴルフ場が必要になった。

続いてアフリカのモロッコ。そこから米のフロリダ。この時は同州内の事務所にも立ち寄らず。そのまま中国の北京。そして最後が日本。成田へ降り立った8日夜。ニクラスからの、短いメールが届いたのは、午後8時16分だった。

「いま、東京に着いた」。
「ナニ、予告もナシに?」。
「明日朝から、造成地をチェック。午後2時過ぎ迄は、千葉に居る」。
「判った。あす間違いなく行く」。

いま彼が日本で、手掛けている新設は、千葉市郊外の東京クラシック。

その連絡は、早くから届いていた。だが当初の登記は別の名称。そのため住所がハッキリしない。確認できたのは、翌朝8時。それを待って出駆けたことで、到着は丁度昼時。

ティグラウンド上。青写真に、自ら要点を書き込むニクラス。ゴルフ場は手作り、であることを教えられる。

ティグラウンド上。青写真に、自ら要点を書き込むニクラス。ゴルフ場は手作り、であることを教えられる。

事務所で30分ほど、取材も含めた雑談。22人の孫を中心に、家族の話。彼がホストを務め、今年は松山英樹が優勝した、米ツアー、メモリアル・トーナメントのこと。さらにはニクラスの設計したコースでの、日本オープン開催の可能性。そして2020年東京五輪に迄、話が延びる盛り上がりだった。

その後2台のバギー車に分乗。造成中の18ホールの、再度のチェックを、次々こなして行く。昔と変わらない。また地球を一周半し、十数時間前、成田に着いたばかり、とは思えない、精力的な動き。各ホール、ティグラウンド、そしてフェアウエイのIPから、次々指示を出す。

私は2台目のバギーで、広報担当筆頭副社長の、スコット・トーリイと、写真を撮りメモを続ける。スタッフに指示を与える、帝王ニクラス。彼の一言半句が、物書きの私には、宝物になる。

ニクラスにとっては、大好きな日本。心を許せる国。午後の約2時間も、充分満足行く表情で、この日の仕事を終えている。

ハワイのホクリア(ハワイ島)や、アリゾナのスコッツデール等。世界のあちこちで、造成現場での、ニクラスを取材して来た。そこで見えるモノ。それは「ゴルフ場は、一度完成させれば、それは半永久的なモノ」。だから設計のセオリーは変化(進歩)しても「自然に溶け込ませた、丁寧な造り」は、終始一貫している。そこで彼は絶対に妥協しない。

さらに際立つのは恵まれた用地。これだけのモノ、日本では滅多に見られるモノではない。その素材にグリーンばかりか、フェアウエイ全体の、おおらかで絶妙なうねり(アンデュレーション)を加えた。日本の場合フェアウエイは平坦。左右のラフに、小さいマウンドを造る。そんな勘違いが多かった。ニクラスの基本は、スコットランドの、ミュアフィールドGCに通じる、ゴルフ本来のフェアウエイのうねり、なのだ。極言すればゴルフは、アンデュレーションのゲームなのだから。

これがニクラスの、地球駆け巡りを可能にする、自家用ジェット機Air Bear

これがニクラスの、地球駆け巡りを可能にする、自家用ジェット機Air Bear

ニクラスの全英オープン優勝は3度。そのうちの2度がオールドコース(セントアンドルーズ)でのモノ。その前初めて、クラレットジャグ(優勝トロフィー)を抱いたのは1966年。ミュアフィールドGCだった。ここの正式名称はHonourable Company of Edinburgh Golfers。その歴史はゴルフの総本山R&Aより古く長い。

JackPlanePlans06_JM19「若い頃から、私の弾道は高かった。風の強いスコットランド。あれでは勝てない。英国の新聞は批判的だった。それだけに、私にとって、生涯最も嬉しい優勝になった」。

1976年から続く、米ツアー、メモリアル・トーナメント。その舞台はニクラスの郷里オハイオ州の、ミュアフィールド・ビレッジGC。それはニクラスが、全英オープン初優勝を飾ったコースから、借用した尊い名称なのだ。

ニクラスとの仕事で、感心させられる、もう一つのこと。それは造成地で一緒に過ごしたスタッフ。彼ら一人々々への仕事後の労い。それを忘れないこと。今回も工事担当者から、若い女性カメラマンまで。全員に声を掛け握手している。それが彼の場合、ごく自然に出て来る。

ゴルフ界の帝王として、常に王道を歩んで来た、男ならではの所作。これでは、世界中から、設計の注文が殺到して、当然なのだ。

なおニクラス設計のコース。日本ではこれ迄26。この東京クラシック(千葉市若葉区)は来春には竣工。そして2015年秋。ニクラスが再来日して、開場式が行われる、と言う。

(Oct.13.2014)

五輪競泳の主役、ゴルフに転じることの困難さ

「22」が光る、フェルプスのアイアンとバッグ。トップメーカーPINGも、水の怪物の新しいチャレンジを、全面的にサポートしている

「22」が光る、フェルプスのアイアンとバッグ。トップメーカーPINGも、水の怪物の新しいチャレンジを、全面的にサポートしている

五輪でのメダル22箇。そのうちの18箇が金メダル。マイケル・フェルプスの名前は、未だ多くが記憶している。

ちなみに2年前のロンドン。その前08年の北京で、競泳プールの脚光を独り占めした。五輪のヒーローは、名声だけでなく、大きな収入にも結び付く。日本でもそれを証明したのが、同じ水泳の北島康介。フェルプスの場合、その北島より遙かに、スケールの大きい、世界的な主役。ニックネームも、水の怪物。その五輪メダル22箇が選んだ、第二のスポーツ。それがゴルフだった。

193センチの長身と、長い腕。それを生かして、ミシガン大時代から、ゴルフも結構上手かった。五輪後の2012年秋。抜群の知名度を生かし、早速米のケーブル局が、シリーズ番組を開始する。狙いは五輪ヒーローが(あわよくば、プロになる迄の成長過程)。

平行して、セレブとして、プロアマへの出場も開始する。デビューは2013年1月末。フェニックスオープン。そのタイミングで、用具の契約も結ぶ。一級のメーカーPINGと。バッグにもアイアンにも、22の数字が刻み縫い込まれる。五輪の知名度は、追い風をどんどん強くする。テレビの評判も悪くない。

それを受け撮影で、スコットランドへ行く。処がここで、最初の挫折を、味わうことになる。スコットランドには、一日に四季がある、と言われる。それ程急変する天候、それへの、対応の難しさ。さらに膝まで隠れるような、深いラフ。ボールを打つことの楽しさより、ボール探しの忍耐が、求められる。米では体験できないコース。我慢しきれず、フェルプスは、手にしたクラブを、何度も放り投げる。

それを地元スコットランドのメディアが、記事として報じた。ゴルフで、2つ目の世界に乗り出すことの、困難さを、見せ付けられた時だった。

実は競泳とゴルフは、対極にあるスポーツなのだ。

競泳は、持てるパワーを全開し、必要な距離を泳ぎ切る。だから十代から二十歳そこそこ迄の、年齢が中心になる。国際規格があるから、プールのコンディションは、何処もほぼ同じ。

一方のゴルフは、まず4時間のマラソン。異なるコース。そこではボールを打つ技術。それ以上に、心を制御すること(セルフコントロール)と、コースマネジメントが、大きな鍵を握る。さらにゴルフでは、繊細な動きが随所に求められる。五輪で22箇のメダリストも、どうやらその壁が、突破できていないようなのだ。

そのフェルプスの名前が、最近久々に米の新聞テレビを賑わした。それはスピード違反と、酒気帯び運転で逮捕されたこと。米からの情報に拠ると、「最近水泳競技に復帰したが、ここでも結果が出ず。ストレスが溜まっていたはず」。恐らくゴルフが上手く行かず。それで昔のプールに戻った。だがピークを過ぎた、かつてのヒーローが、相手にされる世界ではなかった。

それにしても最近、競泳選手の話題が続く。一つは、豪州のイアン・ソープ。フェルプスの前、水の超人と呼ばれた196センチ。彼はこの夏、同性愛者であったこと。さらに鬱病と戦っていたことも、豪州のテレビで、告白している。引退後彼はズッと、悩み苦しんでいたことが判る。

さらに今回のアジア大会。ここでは日本の代表選手が、あろう事か、報道陣の80万円もする、カメラを窃盗。即刻チームから追放されている。それぞれに、直接的な関連はないのだろうが、それにしても、若くしてヒーローになる。また長い年月、水泳一筋の生活をする。それらの或る種反動なのかも知れない。

だが、第二のスポーツに転じることが、総て失敗に結び付くか、と言えば、それは違う。大きな成功者は、私たちの身近にいる。それはプロとして、113回の優勝を、重ねたジャンボ尾崎だ。彼は徳島海南高時代、1964年のセンバツで優勝。その後当時の、西鉄ライオンズに入団。だが見切りを付け、数年で退団。71年には日本プロ選手権で、プロ初優勝を飾っている。

その尾﨑が、次のように述懐する。
「要するに切り換えるタイミング。その時、先が見えるか否か。オレの場合は、さらに若い年齢で決断したこと」。

自分の能力が、何処にあるか。自分の適所探し。それに対する的確な読みがあった。尾﨑の成功は、そこに在る。尾﨑の活躍に刺激され、その後多くの高校球児、そしてプロ野球経験者も、プロを目指し、ゴルフに転じている。巨人のエースだった、西本崇もその一人。だが成功していない。

だから、戯れに第二のスポーツに、ゴルフを選ぶのでなく、ゴルフは九十数パーセントの人にとって、週末のレクレーション。その位置に留める。そのことが、より大切になる。

関連したゴルフの、もう一つの効能。それは言わずもがなリハビリ。日本では大衆化するに至っていない。だが北米や、英豪等では盲人のゴルフが、市民権を得て久しい。これらの国々では、戦争で視力を失った市民も多い。彼らの社会復帰の、一つの道具。それがゴルフ。環境さえ整えば、目が見えなくてもゴルフは出来る。私も彼らのゴルフを、何度も取材し、その都度驚かされて来た。

フェルプスのスピード違反は、今回が二度目。前回は保護観察処分だったが、二度目は当然厳しくなる。このピンチを乗り切る。そのためには、リハビリの道具と受け止め、ゴルフを楽しむ。頭の切り替え時、であることは間違いない。

(Oct.06.2014)