堂々たる敗者になる。その覚悟が出来ている者は強い

 敗者が、勝者より輝くシーンを、海外の取材では繰り返し、見せ付けられる。文中にもあるが、この2人(左がペイン、右がジャンセン)も、敗者ペインの方が、主役然としていた。スポーツはショービジネス。観客はクライマックスでの、彼らの役所に熱狂するのだ

敗者が、勝者より輝くシーンを、海外の取材では繰り返し、見せ付けられる。文中にもあるが、この2人(左がペイン、右がジャンセン)も、敗者ペインの方が、主役然としていた。スポーツはショービジネス。観客はクライマックスでの、彼らの役所に熱狂するのだ

勝負事に関する、日本人の受け止め。それは「勝てば官軍、負ければ…」。

それに対し英語圏ではGood Loserなる表現が、一般に浸透している。堂々たる敗者、である。

ここに添付した写真。これは1993年の全米オープン。場所は東部ニュージャージー州のバルタスロル。旧知ペイン・スチュアートが、格下のリー・ジャンセンに競り負けた。その敗者が、この様な暖かい眼差しで、勝者を祝福している。僅か数分前まで、ナショナル・オープン選手権で、凌ぎを削った者同士。

それから5年後の1998年。場所は加州のオリンピック・クラブ。偶然とは重なるもの。この時もペインは、ジャンセンの後塵を拝した。ただし、この時もペインの、敗者としての態度は、実に堂々たるものだった。まさにグッド・ルーザーだった。

私たち物書きも、所詮は人の子。取材上の付き合いで、関係が深くもなり、浅くもなる。その条件の一つが、親から受けた彼らの教育と、それに伴う知性かも知れない。

例えば日本人プロの場合、負けたらブンムクレ。口を利こうとしない者もいる。高々一つの負けが、どうしたと言うのだ、と言いたい。

1987年、ミュアフィールドの全英オープン。この週は例年になく寒かった。持参した物だけでは足りず、新たに購入したカシミアと、ウインドブレーカーを、それぞれ2枚重ね着したほど。この時第二ラウンド以降、首位を走ったのは、初出場の米若手、ポール・エイジンガー。南国フロリダ出身ながら寒風にめげず。だが最終日17,18番の連続ボギーで、ファルドの逆転を許す。ちなみに最終日のファルドは、18ホール全部パー。強風雨の中、英国人らしい手堅さ。またそれは、1969年トニー・ジャクリン以来の、英国人の優勝。喜んだ地元ファンが、エイジンガーのボギーに、拍手を送る失態。それを主催のR&Aが、公式に詫びる。そんなこともあった。

記者会見には、勝者も敗者も呼ばれる。女房と壇上に現れ、顔見知りの我々に、手を振り愛想を振りまくファルド。一方のエイジンガーは、大詰めで大魚を逃した悔しさが、脳裏から離れない。思い詰めた表情。それでもシビアな質問が、矢継ぎ早に飛び、それにしっかり答える。そして最後に同じ台詞を、小声で2度繰り返した。それは「これが、この世の終わりではない」だった。自分に言い聞かせるように。この時エイジンガー27歳。

勝負の世界の非情さ。翌年の8月、私は同じ台詞を、もう一度聞くことになる。この年の全米プロ選手権は、オクラホマ州のオークツリー。ピート・ダイ設計の人気コース。この時もエイジンガーは36,そして54ホールをリードした。それでも一年前の、全英オープンの不運が再現される。日曜日小柄なジェフ・スルーマンが、バーディ、イーグルの猛ダッシュで65。掌中に収めつつあった、メジャーの勲章は、またしてもエイジンガーの手から、こぼれ落ちた。この時も彼は、同じ台詞を吐き、自分自身を鼓舞した。それが「これが、この世の終わりではない」だった。

まさに「この世の、終わりではなかった」ことを、証明できる時が来る。1993年の全米プロ。舞台はオハイオ州のインバーネス。この時272で並んだ2人が、プレーオフに入る。エイジンガーが倒した相手はグレッグ・ノーマン。彼は「この世の終わりでないことを」三度目にして証明して見せたことになる。グッド・ルーザーを繰り返した末の勝利。それだけに、この時のエイジンガーは、堂々胸を張った。

2週前の全米プロ選手権。既に報道されているが、最終日の終盤は、薄暗かった。豪雨による中断の影響だった。最終組は首位を走るマキロイ。その前の組が、数打差で追うミケルソンとファウラー。最終ホールはイーグルもあるパー5。それぞれに勝敗は、最後の最後まで判らない状況。何れにしろ後ろの組は、その分だけ不利になる。暗さが増すからだ。

また「競技続行が不可能」となれば、コースには中断の笛が響く。一晩寝れば、翌日の僅か一ホールでも、筋書きが変わる可能性。ただしその前に、ティショットを済ませれば、そのホールは終了出来る。それらを考慮し、前の組の2人は18番。ティショットばかりか、グリーンを狙うショットも、自分たちが終了する前に、マキロイ達に打たせた。臨機応変のその処置もあり、マキロイは18番パー。7月の全英に続き、メジャー2連勝する。そして優勝スピーチで、ミケルソン、ファウラーのスポーツマンシップに、繰り返し感謝した。

そのとき日本のマスコミの一部には「さすが紳士のスポーツ、ゴルフ」との表現があった。ゴルフには審判がいない、と言う特殊性がある。各競技者が、それぞれにフェアな判断をする。

その根底にあるのは、スポーツマンシップ。さらに相手を思い遣る、ジェントルマンシップ。これがある限り、それぞれ紳士的に振る舞う。だからそれは、ゴルフだけの特徴ではない。ラグビーなど他のスポーツにも、それは当て嵌まる。終了の笛が鳴れば、ノーサイド。そして相手の健闘を讃え合う。それがスポーツ全般の、精神なのだ。

ミケルソンとファウラーが、後続のマキロイ達に示した配慮は、だから彼らにとっては、 (彼らを有利にすることを覚悟した)当然の判断だったし、ゴルフだけの限られたモノではなかったはず。

話は戻って、ペイン・スチュアート。彼はジャンセンに、二度苦杯を舐めさせれた。それでも1999年。パインハーストNo.2で、全米オープンのトロフィーを抱いた。二度に渡るグッド・ルーザーの過去があっただけに、その勝利は鮮やかに輝いた。

それにつけても、私が納得しない用語がある。それは「国内メジャー」。

今年の全米オープン。36ホール終了時の、最下位2人は日本人プロ。それも160(79と81。もう一人は2日間とも80)を打って。さらに土曜日。別の日本人プロが88を打った。全米オープンの舞台で。日本で乱用されている「国内メジャー」とは、この程度のプロが中心になる競技。それを「メジャー」と呼ぶことは、余りに恐れ多い。畏敬の念がなさ過ぎる。いや名称の上げ底を止めることで、日本人プロは、もっと海外で好成績を残せる可能性を、引き出せることになる。

本物のメジャーで160も88も打つプロは惨めなだけ。グッド・ルーザーとは言えないからだ。

その全米プロ選手権。タイガー不在の週末も、テレビの視聴率は高かった。マキロイの強さもあった。残された時間の短い44歳、ミケルソンの粘りも視聴者の心を打った。そこに加わった、グッド・ルーザーの爽やかさ。それもテレビ視聴者の、心を捉えたに違いない。

暗闇の中での表彰式。そこでマキロイが繰り返した、ミケルソン、ファウラーへの謝意。当たり前の行為とは言え、良いシーンは多くの人を魅了。歴史にも残ることになる。

(Aug.18.2914)