シャンペン・トニー。歴史に填まることの活力

0722151156aナニやら、張り子の虎と思わせる清宮幸太郎。ナニはともあれ、彼の登場で、終わったばかりの百年目の甲子園は、大変な盛り上がり。早実のOBでもある、王貞治さんが始球式。連日スタンドを埋めた観客は、歴史を満喫した。その代表は「清原、桑田、ゴジラ松井との比較」だった。

とは言え、清宮の登場は、数十年前の歴史を掘り起こし、野球ファンの関心を大きくした。

野球に匹敵する、長い歴史を有するスポーツの一つがゴルフ。日本オープンは約百年。それより前、全米オープンと全米アマチュア選手権。その開始は1895年。全英オープンに至っては、更に古く1860年(日本の年号だと安政7年)だそうである。

1213141256(1)この話は、その中での51年前。1964年に遡る。前の東京五輪の年のことだけに、当時日本でゴルフを知る大衆は、非常に少なかったはず。その年の全英オープンで優勝したのはトニー・レマ。愛称シャンペン・トニー。

優勝すると、シャンペーンで祝った。そこから付いたニックネーム。2位ニクラスに5打差を付けて優勝した、この年の全英オープンはセントアンドルーズ。プロ通算22勝。その勝利から2年後。この年の全米プロ選手権は、オハイオ州アクロンの、ファイアストンCC。実力、人気ともトップ級に躍り出ていたレマは引っ張りだこ。

オハイオ州の手前はイリノイ州。そこでのエキシビションの要請を受け、妻や関係者とチャーター機に乗る。その飛行機が、空港を目前に墜落。有望な才能は、32歳の若さで消えた。

0718152015私自身、ゴルフの仕事を始めて後、資料の中でトニー・レマ、シャンペン・トニーの名前は、何度も検索してきた。とは言え、そこ迄の存在だった。

フェースブックを始めて、私は3年が過ぎた。一年前の今頃、デビッド・レマと名乗る米国人から、トモダチのプロポーズが届いた。彼の略歴に感激した。彼こそが、あのシャンペン・トニーの、忘れ形見だったのである。

私に取っては、歴史の中でしか、接することの出来なかった先達。その人の体内に流れた、暖かい血筋。そこに到達できたのでは。そんな想いが走ったからだ。

息子デビッドの職業は、ミュージシャン。ゴルフも結構上手そう。性格的にはポジティブ。そんなことでこまめに、チャットを楽しんで居る。

0720151309ゴルフ同様、音楽の仲間も世界中に居る。この7月、デビッドはスコットランドを訪れた。半世紀前父親トニーが、シャンペーンで優勝を祝った、セントアンドルーズでの全英オープンを観戦。その後スコットランドの、音楽ゴルフ仲間と、オールドコースでのラウンドを楽しむ。それが目的であり、その時送ってきた写真がこれだ。「結構上手そう」どころか、高いフィニッシュの、力強いスイング。カエルの子は蛙を実感させられた。

他のモノは、一緒に送られてきた、父親トニーの資料写真。折角なので、同時に掲載し、読者の皆さんに、お楽しみ戴きたい。

前出甲子園同様、歴史が見えると、いま目の前で起こっている現象。その厚みが何倍にも増し、興味がおおきくなる。誰しも自分の生まれ育った、家系には関心がある。それと同じこととは、言えないだろうか。

0321151201スコットランドから帰国した後。デビッドはハワイでの、プロアマにも出場。その折り「遠からず、日本へも足を伸ばしたい」と、話していた。その折りは(可能なら)軽井沢ゴルフクラブで一緒にラウンド。ゴルフの歴史上、重要な役割を演じた、白洲次郎さんの話も、楽しみたいと思う。

(Aug.31.2015)

自閉症の妹を、笑顔で支える、22歳WR一位スピース

WeedenB0903-OSUmarketing 「でも彼らは、誰にも罪はないのですよ。囲りの人が、理解を」。

私たちゴルフ界の人間が、自閉症の三文字を、初めて身近に聞いたのは7年前。2008年3月のことだった。全英、全米オープンなど複数のメジャータイトルを獲得。競技者としては、世界的な大活躍。南アフリカ出身のアーニー・エルス。

38歳のこの時、彼は「自閉症は、語る」と書かれたロゴマークを、ゴルフバッグに付けて、トーナメントに登場している。ツアープロは或る種、イメージが重視されるビジネス。順風満帆だったエルス。この時6歳だったか。長男ベンの自閉症を公表したのだ。勇気が要ったに違いない。

ジョーダン・スピースは、米を代表する州、テキサス生まれの22歳。説明する迄もなく、今年4月、6月マスターズ、全米オープンを連取。「スワ、年間四冠か」と、世界のスポーツ界は騒然となった。尤も快進撃はそこで終わる。それでも全英オープンは、3人のプレーオフに1打差。最後の全米プロ。この時も、豪州のデイを、3打差にまで猛追しての2位だった。4つ全部は勝てなかった。だがそれで、も圧倒的な存在を示した。

そんなスピースに、神は微笑む。それ迄マキロイが92週維持していたWR(世界ランク)。22歳になったばかりのスピース。その頂点に、彼が立ったのだ。

この季節ゴルフは、半分オフ感覚。それに比べMLBは、いよいよ大詰め。そんなタイミングで、全英オープン優勝のザック・ジョンソンは、地元カブスの試合で初の始球式。結構興奮した様子。スピースと妹の写真が、仲間内に出回ったのは、そんな間合いだった。何のためらいもなく。それがこの写真だ。

長男ベンと、コースを歩くエルス(写真はエルス自身のモノ)

長男ベンと、コースを歩くエルス(写真はエルス自身のモノ)

日本のプロゴルフ。それは全体的に「稼いだカネは、オレのモノ」。海外の感覚。それは「稼いだカネは、皆なのモノ」。説明する迄もなく、米ツアーの賞金王はチャリティ基金。最初の積み立てが始まったのは1938年(昭和14年)。その通算が2008年には、1.2billion米ドルに達して居る。

その様な歴史の中、若いスピースも例外ではない。彼の収入を管理するファミリー基金。その一部は北テキサス(スピースが住む場所)プロゴルフ協会が委託され、諸々運用される。その中の一つは、高校生迄を対象にした奨学金制度。2年目の今年も、男女2人が選ばれ受賞している。米の大学教育は学資が高い。それだけに、これらの奨学金システムは、優秀な人材育成に結び付く。

スピースは、ダラスの高校時代から、ゴルファーとして、プロの試合(バイロン・ネルソン選手権)でも活躍。妹の自閉症の話は、その頃から、仲間内では囁かれていた。それが今年の、年間四冠への快走で、瞬く間に表面化した。テキサスを代表する、私たちの記者仲間は、女性のベテラン、メラニー・ハウザー。彼女も微笑んでいた。

妹の自閉症は、もう変に隠す必要も何でも、なくなっていたのだ。

(coutesy of Nicklaus Companies)

(coutesy of Nicklaus Companies)

2008年、エルスが長男の自閉症を公表した、ホンダクラシック。この週は今ニクラスと奥さんバーバラ。2人も参加して、病と闘う子供達と遊び、基金集めを呼び掛けている。奥さんバーバラは、今年米国ゴルフ協会最高の名誉、ボブ・ジョーンズ賞を贈られた。それはゴルフを通し、多大なフィランスロピー活動に対してだった。

形の違う社会奉仕。ミケルソンの住むサンディエゴ。周囲は貧困なヒスパニックが多数。米は間もなく新学期。それを前に、ここ十年近所の子供約千人をマーケットに招待。新学期に必要な、文具、ウエア、靴などを買い与える。その間ミケルソン夫婦は、ズッと会場に留まる。

自閉症から社会の貧困まで。誰にも罪はない。それだけに周囲の人間が、理解を示すことの大切さ。スピースと妹に限らず、多くの例が、教えてくれる。

(Aug.24.2015)

全米プロ選手権ドラコン賞の、格好いい使われ方

1963JWNPGA$$Clip_18_01終わったばかりの全米プロ選手権。火曜日。舞台のウイスリング・ストレイツ2番ホール(パー5)で実施された、ロングドライブコンテスト。アニルバン・ラヒリは327ヤードを記録。堂々の一位を勝ち取った。日本の場合だと、30万円とかの賞金が贈られ、それは個人の懐に消える。

流石は99回の歴史を誇る全米プロ。出す賞が洒落ていた。

賞金は、彼の名前での、2万5千ドル相当の寄付行為。その団体を指定すると、主催のPGAオブ・アメリカが、指定されたチャリティ団体に、同額の小切手を送る。

今回ラヒリが指定した先は、アメリカンレイク退役軍人ゴルフコース。ワシントン州タコマの9ホールのゴルフ施設。イラクやアフガンで身体を損傷した退役軍人。彼らのリハビリのための専用施設。ここはまたジャック・ニクラスが、設計を奉仕で引き受けている処。ラヒリが獲得した2万5千ドルはそこへ送られた。

(All three photos are courtesy of Nicklaus Companies)

(All three photos are courtesy of Nicklaus Companies)

一億円以上の優勝賞金を手に出来る米ツアー。そのチャンスがある彼らにとって、2万5千ドルは、懐に仕舞い込む必要のない額。それに代わりラヒリには、金色に輝くマネークリップが、PGAオブ・アメリカから贈られた。

ツアープロは世界を旅する職業。その時小銭を挟むマネークリップは、重要な小道具。誰もが「それ、ナニ?」と関心を持つ。自己顕示の絶好の小道具。2015年ドラコン王。生涯付いて回るこの名誉が、この小さなクリップで、誰にでも分かって貰えることだ。

話は設計者ニクラス。彼は全米プロ選手権で、最多の5度優勝。それ以外でも36度の出場で、12度のトップ10フィニッシュを記録している。帝王ニクラスの強さを、まざまざと示す数字。そのうちの一度は1963年。この時もドライビング・コンテストは実施されている。勝者は言わずもがなニクラス。

驚くのは、彼が飛ばした距離だ。当時の用具は、ドライバーもボールも、現在と比較して、遥かに飛ばない、パーシモンと糸巻きボールの時代。52年前のこと。その時ニクラスが記録した数字。それは341ヤード17インチだった。今回156人の中で、一番飛ばしたラヒリを、14ヤード、アウトドライブしている。

果たして今回の全米プロ選手権。その出場者が、52年前の糸巻きボールを、パーシモンウッドで打ったら、どんな飛距離が計測出来ただろうか。興味は尽きない。

AmericanLk_JM15_216ちなみにニクラスが勝利した全米プロ選手権の舞台。それらは1963年(ダラス・アスレティッククラブ)、1971年(PGAナショナル〕、1973年(カンタベリー)、1975年(ファイアストン南コース)そして1980年(オークヒル〕、何れも名コースばかりだった。

ここに添付した写真は、その中でも初優勝した52年前のモノ。モノクロの写真が、時代を感じさせる。偶然だが同じ1963年11月22日、ケネディが暗殺されている。そんな時代に、それほど飛ばしていた。ニクラスは強くて当然だったのだ

話はラヒリの2万5千ドルに戻る。それが贈られた退役軍人用のゴルフ施設。その写真も添付した。実に格好よい使われ方では、ないだろうか。

なおラヒリはインド人のプロ。米ツアーの前は、アジア各地を転戦していた。今回全米プロ、5位の好成績。秋のプレジデンツカップ出場の、チャンスが見えてきた。

(Aug.17.2015)

260年、R&A始まって以来の大失敗

 主賓のいない、殿堂入り記念撮影。最前列右パーマー。左はプレーヤー。中央二人はオメーラ(右)とグラハム(左)。その左右のロペスとアニカ。さらに中列にも、ブラッドリーたち殿堂入りした、多くの女性。そんな中、肝心要のデイムLauraは、間に合わなかった。パーマーの様に、自家用ジェット機で移動する、成功者も少なくない。気が付かなかったのだろうか。(coutesy of R&A)

主賓のいない、殿堂入り記念撮影。最前列右パーマー。左はプレーヤー。中央二人はオメーラ(右)とグラハム(左)。その左右のロペスとアニカ。さらに中列にも、ブラッドリーたち殿堂入りした、多くの女性。そんな中、肝心要のデイムLauraは、間に合わなかった。パーマーの様に、自家用ジェット機で移動する、成功者も少なくない。気が付かなかったのだろうか。(coutesy of R&A)

今年の全英オープンは、セントアンドルーズのオールドコース。予報通り大型低気圧が直撃。最終日が月曜日に、持ち越される。27年ぶりの事態。そこではアマチュアが、最終組でスタートする。歴史的出来事が重なった。

そのため多くが忘れがち。そんな喧騒の中、週はじめ月曜日のエラーは、私ばかりか、多くが許せない気持ちになった。

ゴルフの殿堂。これがあるのは、米フロリダ州セントオーガスティーン。そんな事で従来は、殿堂入りの式典を、ザ・プレーヤーズ週初めに実施してきた。今年の殿堂入りは4名。マーク・オメーラ、デビッド・グラハム、ローラ・デイビイズ。そのローラの名前には、デイムDame(knightに相当する勲位に叙せられた女性の敬称)が付く。4人目が、私の好きな設計者A.W.ティリングハスト(故人)。

ゴルフ界は、いま規模を大きくすることに、血道を上げている。その一つがイベントを、一ヶ所に集中すること。その一つとして、今年の殿堂入り顕彰を、全英オープンの週の月曜日に設定した。

透かさず、何人もの旧知から「そりゃあ、駄目だよ。肝心のローラが出席できない。時間的に」との、心配意見が多数交わされる。

大西洋には、5時間の時差がある。そればかりか、セントアンドルーズは、欧州北の外れ。加えて全英前週は全米女子オープン。開催場所は、ペンシルベニア州のランカスター。ローラが最終日迄プレーしないはずはないし、予定通りなら殿堂入りの顕彰は翌日午前。5時間の時差を差し引いた時、民間機使用では、それ迄の到着は不可能。

早くから危惧されていたこと。直前の全米女子オープンの週になり、心配の声が、急激に大きくなる。

「チャーター機を、飛ばすべき。それならギリギリでも間に合う」。「何しろ相手はローラ。一時代を築いた英国人。何としてでも、彼女を出席させるべき」。当然のこと。最も強く動いたのが、歳下ながら、先に殿堂入りを果たしているカリ・ウエブ。

然し結果的には、チャーター機も飛ばず。記念写真はこの様に、主役デイムLaura不在の儘、撮影されて終わった。

全英オープン前週のランカスターは、全米女子オープン。主催はR&Aと表裏一体のUSGA。だったら殿堂入りの、セレモニーを一日ずらし、火曜日に行うことだって出来たはず。

R&Aと言うか、ゴルフは形が作られてから約260年。男だけの遊び。ゴルフ場、そしてクラブは(男どもが、女房から逃げ出す場所)だった。私がセントアンドルーズを初めて旅。オールドコースを、初体験したのは1975年5月1日。この時も午後のスタート前。知り合いイアン・ジョイに、連れて行かれた彼らのクラブ。そこでは午前中だと言うのに、全員がラガーやスコッチを楽しんで居た。40年前の日本人には、大きなカルチャーショックだった。

それはさておき、260年前と言えば、日本は江戸中期。世の東西を問わず、男尊女卑が当たり前の時代だった。そのR&Aが、今年から女性にも、クラブを開放した。会員として迎えられたのは、アニカと共にデイムLaura。もう一人いた。レネ・パウエル。70年代の終盤頭角を現した、アフリカ系の女子プロ。「黒がツアー活動など許せない。多数の脅迫状が届いた」時代。

いまはオハイオ州で、ゴルフ教室を展開している。そのレネも、会員に迎えられた女性だった。そんなことでデイムLauraに関しては、二つの意味を持った、今年の全英オープン。それは頗る残念な結果で終わった。

なお日本では、デービースとの表記。本人に言わせるとデイビイズ、だそうである。

(Aug.10th.2015)

Rec Parkって、ナニ? 昔ローラ・ボーが育ったゴルフ公園

Linares 1今にして思えば、日本のゴルフ場の、歴史的な失敗。それは何処も、カントリークラブ、と名付けたことだ。

カントリークラブには、通常プールもテニスも、そして乗馬の施設もある。日本に身近なところでは、ロスのリビエラCC。自分たちのモノではないが、ここは近くにサンタモニカの市営空港。州外に住むメンバーは、自家用機で飛来。そして一週間とか、名コースでのラウンド。そして地元に住むメンバーとの、交流を温める。

ちなみにリビエラのホテルでは、昔イチローが、結婚式を挙げている。規模は小さいが格式は高い。それだけに、会員になるには、財布の厚みが必要になる。

Linares 2米国がよくした部分。それは稼ぎの少ない市民でも、小さな出費で楽しめる、ゴルフの施設があること。ロスの場合だと、LA North(いわゆるロサンゼルスCC)と目と鼻の先に、ランチョパークがある。北米大陸を代表する、大衆の憩いの場。ここではかつて、クリントン大統領がラウンド。その時の記念碑が、ハウス近くに建てられている。勿論リビエラで四大競技が開催される年。その時はロサンゼルスオープンは、ランチョパーク開催だった。

他にも有名コースの多いロス周辺。一方でこの辺り市営、郡営合わせた公営が数多。その一つは、穴場Rec Park。Recreation Parkの略。私の編集担当プロ、スティーブの家から、車で5分。ここは一ヶ所に18ホールのゴルフ場。ビリー・ジーン・キングが、幼少を過ごした、テニス施設。野球場。サッカーからバーベキュー迄を楽しめる、広大な芝地が一ヶ所に。

その中心が、骨格のしっかりした、クオリティの高い18ホールと、二階建て白亜のクラブハウス。その二階には、かつてプロフットボールNFLのチーム(ロサンゼルスRams)が、オフィスを構えていた。まさにRecreation Parkそのものだった。

Club House 4古き佳き時代。フェアウエイの妖精、ローラ・ボーを覚えているのは、かなりの世代。七十年代の初め。ジャンボの登場で、歴史破りの急成長を始めた日本のゴルフ。金髪と笑顔。超ミニのスカート。それがローラ。カメラマンは外聞もなく、全員が超ローアングル。ティグラウンドが高い、東京よみうりなどは、打って付けの場所。それでいて優勝を争う腕がある。

この様な女子プロ、呼ぶ側としては、毎週でも欲しい。そこでエージェント、IMGが画策したのは、ローラ・ボーのカレンダー。カレンダーなら、世の男性の部屋で、毎日微笑んでくれる。これが当たり、長いこと超ビッグセラー。日本の窓口を、一手引き受けたゴルフダイジェストは、そのお陰で「ビルが一つ建った」と言われた。

18th Big RecInspections 285Rec Park 18 007Rec Park 18 023そのローラー・ボーが育ったのがRec Park。「お母さんに連れられ、放課後毎日、練習グリーンで日没まで過ごした」(スティーブの話)と言う。

言わずもがな、ビリー・ジーン・キングは、テニス史を飾った、最も偉大な選手。そのビリー・ジーンからローラ迄が、同じレクリエーション公園で育った。それは偶然ではなく、施設の優秀さ。そして同時に、街中に位置していた。そのことなのだ。

Aeiral Rec 9 & 18私にしても、東へ行く時は、シカゴ辺たりで乗り換え。またアリゾナへ直に行く時はLAXで乗り継ぐ。それ以外の時は、レンタカーでスティーブの家へ直行。打ち合わせ終了を待って、Rec Parkへ直行。Coors片手に、薄暮の9ホールで球を打つ。一緒に回る連中。「10時間も飛行して、疲れていないのかい?」と問うが、これが問題なし。スティーブの家でシャワー。その後寿司(鯉と言う日本人経営の店)か、デッカイチーズバーガーを平らげてバタンキュー。それで時差は、ほぼ消える。事ほど然様に、街中のゴルフ場は役に立つ。

日本の約2400のゴルフ場は、その殆どがカントリークラブ。一方米の1万7千は、その6割以上がパブリック。その代表が(My Favorite)Rec Parkなのです。皆さんも、南加州へお出かけの折は、是非ローラ・ボーのコース、ラウンドを。

(Aug.3rd.2015)