元プロ野球選手が、他の種目で奨学生。米大学スポーツの柔軟性

好カードには、一試合で10万人の観客が、熱狂する米のカレッジフットボール。そこで実績を積んだウイーデンは、28歳で卒業。そして念願のNFL入りを果たした

好カードには、一試合で10万人の観客が、熱狂する米のカレッジフットボール。そこで実績を積んだウイーデンは、28歳で卒業。そして念願のNFL入りを果たした

マイナーとは言え、ヤンキース、そしてドジャースのマウンドに立った。そのプロ野球経験者が、奨学金を得て、他の種目で、大学で活躍する。日本では、まず見られぬこと。

何故この話を書くかと言えば、日本に同じ道を、歩むべき26歳がいるからだ。斎藤佑樹。彼が甲子園で優勝した8年前から、私の見解は変わらない。「斎藤はプロでは通用しない」。詳細の説明は、後回しにする。

日本ハムの斎藤。彼が甲子園で優勝。ハンカチ王子と持て囃された。その時から私は、終始一貫。「斎藤くん、キミは野球より、ゴルフに向いている」と書いてきた。

あの人気がなければ、昨シーズン終了後、解雇通知を受けて、不思議でない成績だった。だがそれは、プロ入り前から、予測されたこと。それより何より、彼がゴルフに転ずれば、野球の何倍もの、好成績を残せる可能性。ただし、それには条件がある。それは米の施設で米の指導を受ける。それを短期集中して行うこと。その最短距離は米に留学。ゴルフ部に入ることだ。

それに対し「26歳。年齢的に遅い」との声が聞こえる。

心配は無用。米のカレッジ・スポーツのシステムは、二十代半ばのプロ野球経験者を、受け入れてくれる。懐の深さを持っている。長くなるので、斎藤の話はここ迄にし、最近の成功例を記述したい。

OSU(オクラホマ州立大)は、全米学生選手権10度優勝。カレッジゴルフ界の雄。キャンパス近くに「男女ゴルフ部員のためのゴルフ場」カーステン・クリークを持つ。設計はトム・ファジオ。ここ長いこと、オーガスタ・ナショナルGCの、改造を任されている実力者。

ウイーデンと同時期、OSUの顔として注目された、ピーター・ユーライン。既にプロ転向し、現在は欧州ツアー中心に活動している。なお今朝バークレイズで、逆転優勝したハンター・メイハン。彼もOSUの卒業生

ウイーデンと同時期、OSUの顔として注目された、ピーター・ユーライン。既にプロ転向し、現在は欧州ツアー中心に活動している。なお今朝バークレイズで、逆転優勝したハンター・メイハン。彼もOSUの卒業生(These photos courtesy of Oklahoma State Univ.)

ゴルフ部員ではなかった。だが数年前まで、そのOSUフットボール部のエースQB(クオーターバック)。それがブランドン・ウイーデンだった。何しろ大学に入ったのが二十代半ば。既に結婚もしていた。何故それ程遅く? 理由は簡単。高校卒業後投手として、ヤンキースと契約。その後ドジャース他へトレード。その間に、投手の生命、肩を痛め野球を断念した。

米では野球の投手が、秋から冬に掛け、フットボールのQB。二足の草鞋を履くケースは多い。ただしQBでの投球数は、野球ほど多くない。それがOSUに入学した、一つのカギだった。

OSUの4年間。ウイーデンはチームの要QBでOSUを、シーズン終盤まで、優勝争いに導く。そして其処に待っていたのは、NFLでのドラフトだった。野球のMLBも人気がある。だがフットボールは米の国技。秋の感謝祭休日。家族が集まった時、芝のある自宅の庭で、父と息子が楽しむのがフットボール。肩を痛めたことで、一度は諦めたプロのスポーツ稼業。それをフットボールで、再度実現できた。ウイーデンにとっては、有頂天になっていい状況だった。ドラフトされたのは、クリーブランドに本拠を置く古豪ブラウンズ。当然のことながら、一年目から先発を任された。

ロックフェラーやカーネギーが、為し得たのもアメリカン・ドリームだった。同じように二十代の青年が、僅かな期間に、2つのスポーツでプロとして活動する。これも紛れもなく、アメリカン・ドリーム。それを可能にするのが、柔軟性ある米のシステムなのだ。何と融通が利くことか。そのウイーデン、秀でていたのは、野球とフットボールだけではなかった。

トーナメントで、キャディは唯一の味方。そんなことで、米の大学監督は、成長過程の教え子を、この様な形でプロ転向後も指導を続ける。左がマイク・ホルダー。指導に於ける、彼らの木目の細かさは、圧倒的だ

マイク・ホルダー。石川遼が15歳で初優勝した時。「高校卒業後、関心あるなら、是非米の大学へ留学を」と勧めてくれた私の旧知。彼が笑みを浮かべ説明する。

「時に神は不公平だと思うことがある。それは一人の若者に、幾つもの才能を与えること」。現在OSU体育局長のホルダー。彼はゴルフ部監督時代。NCAAで8度の優勝を残している。彼こそが、カレッジゴルフ界の、指導者の帝王なのだ。そのホルダーが、べた褒めするウイーデン。彼は野球、フットボールだけでなく、ゴルフでもOSUゴルフ部員と、互角にプレーする才能だった。

彼がOSUにいた頃、ゴルフ部のエースは、ピーター・ユーライン。アマチュアの世界ランク一位。学生時代マスターズに招待された。何処から観ても、サラブレッド。また彼の父親はアクシュネット社(タイトリストとフットジョイ)の社長。プロV1ボールを、開発したのも彼の父ウォーリーだった。その才能と、ウイーデンはゴルフでも、互角に近い勝負をしていた。そんなアスリートを育成する。それを可能にするのが、米カレッジのスポーツシステムなのだ。

何とかクビは繋がった、ハンカチ王子。だが二軍でも打たれる最近の球威では、先はない。

それより、野球をすぱっと諦める。そしてグローブを置いて渡米する。OSUでも、何処でも相手にしてくれる。其処で一年遣れば、可能性が見える。何しろ米には、自分たちのゴルフ場を持つ、カレッジが全国に点在するのだから。そして6年先。2020東京五輪。斎藤がゴルフで、日本代表になる。何と夢のある話か。

2006年夏。私は西東京の決勝戦を、ジャンボ尾崎の家で、彼と一緒にテレビ観戦していた。日大三高との接戦。相次ぐピンチでの粘り強さと、前さばきの巧みさに、2人して笑みを浮かべた。ゴルフは攻撃の一方で防御のスポーツ。それだけに斎藤の性格は、野球よりゴルフなのだ。その印象は大きかった。甲子園で田中将大に投げ勝った時、だから逆に「この坊やは、野球よりゴルフに向いている」と直感した。

そして今、その通りに進展している。座して解雇通告を待つのは時間の問題。それよりスパッと切り換え、渡米してゴルフに転じる。野球だと30歳過ぎれば、引退を考慮する。同じ年齢でゴルフは、「これから」なのだ。

6年後には東京五輪。斎藤の才能なら、その代表になることも可能。それを教えているのが、28歳でプロフットボールNFLの球団に、ドラフトされた。ウイーデンの成功例。そしてそれを支える、米カレッジのスポーツ育成プログラムなのだ。

(Aug.25.2014)

堂々たる敗者になる。その覚悟が出来ている者は強い

 敗者が、勝者より輝くシーンを、海外の取材では繰り返し、見せ付けられる。文中にもあるが、この2人(左がペイン、右がジャンセン)も、敗者ペインの方が、主役然としていた。スポーツはショービジネス。観客はクライマックスでの、彼らの役所に熱狂するのだ

敗者が、勝者より輝くシーンを、海外の取材では繰り返し、見せ付けられる。文中にもあるが、この2人(左がペイン、右がジャンセン)も、敗者ペインの方が、主役然としていた。スポーツはショービジネス。観客はクライマックスでの、彼らの役所に熱狂するのだ

勝負事に関する、日本人の受け止め。それは「勝てば官軍、負ければ…」。

それに対し英語圏ではGood Loserなる表現が、一般に浸透している。堂々たる敗者、である。

ここに添付した写真。これは1993年の全米オープン。場所は東部ニュージャージー州のバルタスロル。旧知ペイン・スチュアートが、格下のリー・ジャンセンに競り負けた。その敗者が、この様な暖かい眼差しで、勝者を祝福している。僅か数分前まで、ナショナル・オープン選手権で、凌ぎを削った者同士。

それから5年後の1998年。場所は加州のオリンピック・クラブ。偶然とは重なるもの。この時もペインは、ジャンセンの後塵を拝した。ただし、この時もペインの、敗者としての態度は、実に堂々たるものだった。まさにグッド・ルーザーだった。

私たち物書きも、所詮は人の子。取材上の付き合いで、関係が深くもなり、浅くもなる。その条件の一つが、親から受けた彼らの教育と、それに伴う知性かも知れない。

例えば日本人プロの場合、負けたらブンムクレ。口を利こうとしない者もいる。高々一つの負けが、どうしたと言うのだ、と言いたい。

1987年、ミュアフィールドの全英オープン。この週は例年になく寒かった。持参した物だけでは足りず、新たに購入したカシミアと、ウインドブレーカーを、それぞれ2枚重ね着したほど。この時第二ラウンド以降、首位を走ったのは、初出場の米若手、ポール・エイジンガー。南国フロリダ出身ながら寒風にめげず。だが最終日17,18番の連続ボギーで、ファルドの逆転を許す。ちなみに最終日のファルドは、18ホール全部パー。強風雨の中、英国人らしい手堅さ。またそれは、1969年トニー・ジャクリン以来の、英国人の優勝。喜んだ地元ファンが、エイジンガーのボギーに、拍手を送る失態。それを主催のR&Aが、公式に詫びる。そんなこともあった。

記者会見には、勝者も敗者も呼ばれる。女房と壇上に現れ、顔見知りの我々に、手を振り愛想を振りまくファルド。一方のエイジンガーは、大詰めで大魚を逃した悔しさが、脳裏から離れない。思い詰めた表情。それでもシビアな質問が、矢継ぎ早に飛び、それにしっかり答える。そして最後に同じ台詞を、小声で2度繰り返した。それは「これが、この世の終わりではない」だった。自分に言い聞かせるように。この時エイジンガー27歳。

勝負の世界の非情さ。翌年の8月、私は同じ台詞を、もう一度聞くことになる。この年の全米プロ選手権は、オクラホマ州のオークツリー。ピート・ダイ設計の人気コース。この時もエイジンガーは36,そして54ホールをリードした。それでも一年前の、全英オープンの不運が再現される。日曜日小柄なジェフ・スルーマンが、バーディ、イーグルの猛ダッシュで65。掌中に収めつつあった、メジャーの勲章は、またしてもエイジンガーの手から、こぼれ落ちた。この時も彼は、同じ台詞を吐き、自分自身を鼓舞した。それが「これが、この世の終わりではない」だった。

まさに「この世の、終わりではなかった」ことを、証明できる時が来る。1993年の全米プロ。舞台はオハイオ州のインバーネス。この時272で並んだ2人が、プレーオフに入る。エイジンガーが倒した相手はグレッグ・ノーマン。彼は「この世の終わりでないことを」三度目にして証明して見せたことになる。グッド・ルーザーを繰り返した末の勝利。それだけに、この時のエイジンガーは、堂々胸を張った。

2週前の全米プロ選手権。既に報道されているが、最終日の終盤は、薄暗かった。豪雨による中断の影響だった。最終組は首位を走るマキロイ。その前の組が、数打差で追うミケルソンとファウラー。最終ホールはイーグルもあるパー5。それぞれに勝敗は、最後の最後まで判らない状況。何れにしろ後ろの組は、その分だけ不利になる。暗さが増すからだ。

また「競技続行が不可能」となれば、コースには中断の笛が響く。一晩寝れば、翌日の僅か一ホールでも、筋書きが変わる可能性。ただしその前に、ティショットを済ませれば、そのホールは終了出来る。それらを考慮し、前の組の2人は18番。ティショットばかりか、グリーンを狙うショットも、自分たちが終了する前に、マキロイ達に打たせた。臨機応変のその処置もあり、マキロイは18番パー。7月の全英に続き、メジャー2連勝する。そして優勝スピーチで、ミケルソン、ファウラーのスポーツマンシップに、繰り返し感謝した。

そのとき日本のマスコミの一部には「さすが紳士のスポーツ、ゴルフ」との表現があった。ゴルフには審判がいない、と言う特殊性がある。各競技者が、それぞれにフェアな判断をする。

その根底にあるのは、スポーツマンシップ。さらに相手を思い遣る、ジェントルマンシップ。これがある限り、それぞれ紳士的に振る舞う。だからそれは、ゴルフだけの特徴ではない。ラグビーなど他のスポーツにも、それは当て嵌まる。終了の笛が鳴れば、ノーサイド。そして相手の健闘を讃え合う。それがスポーツ全般の、精神なのだ。

ミケルソンとファウラーが、後続のマキロイ達に示した配慮は、だから彼らにとっては、 (彼らを有利にすることを覚悟した)当然の判断だったし、ゴルフだけの限られたモノではなかったはず。

話は戻って、ペイン・スチュアート。彼はジャンセンに、二度苦杯を舐めさせれた。それでも1999年。パインハーストNo.2で、全米オープンのトロフィーを抱いた。二度に渡るグッド・ルーザーの過去があっただけに、その勝利は鮮やかに輝いた。

それにつけても、私が納得しない用語がある。それは「国内メジャー」。

今年の全米オープン。36ホール終了時の、最下位2人は日本人プロ。それも160(79と81。もう一人は2日間とも80)を打って。さらに土曜日。別の日本人プロが88を打った。全米オープンの舞台で。日本で乱用されている「国内メジャー」とは、この程度のプロが中心になる競技。それを「メジャー」と呼ぶことは、余りに恐れ多い。畏敬の念がなさ過ぎる。いや名称の上げ底を止めることで、日本人プロは、もっと海外で好成績を残せる可能性を、引き出せることになる。

本物のメジャーで160も88も打つプロは惨めなだけ。グッド・ルーザーとは言えないからだ。

その全米プロ選手権。タイガー不在の週末も、テレビの視聴率は高かった。マキロイの強さもあった。残された時間の短い44歳、ミケルソンの粘りも視聴者の心を打った。そこに加わった、グッド・ルーザーの爽やかさ。それもテレビ視聴者の、心を捉えたに違いない。

暗闇の中での表彰式。そこでマキロイが繰り返した、ミケルソン、ファウラーへの謝意。当たり前の行為とは言え、良いシーンは多くの人を魅了。歴史にも残ることになる。

(Aug.18.2914)

ライダーカップ、キャプテンTom Watsonの苦悩

 これは20世紀最後のライダーカップ。場所はマサチューセッツ州のザ・カントリークラブ。勝利を喜ぶ、ジム・フューリックと、彼のキャディ、フラッフことマイク・コーワン。チームで戦うことで、ライダーカップには、通常の競技では見られない、重圧が溢れる

これは20世紀最後のライダーカップ。場所はマサチューセッツ州のザ・カントリークラブ。勝利を喜ぶ、ジム・フューリックと、彼のキャディ、フラッフことマイク・コーワン。チームで戦うことで、ライダーカップには、通常の競技では見られない、重圧が溢れる

年齢的に微妙な立場の2人。タイガーとミケルソン。この2人の処遇を、どうするか。ライダーカップの米キャプテン、ワトソンはここ数ヶ月、難しい選択に直面して来た。

国旗を背に、国と個人の名誉を賭けた、ゴルフの戦い。それがライダーカップ。最終日の、劇的大逆転があった二年前。最近はテレビ観戦できることで、日本にもファンは急増している。とは言え、サッカーW杯決勝の熱気。それが3日間。ゴルフ場で続けられる、あの雰囲気を、日本のテレビで百%理解することは困難だ。

二年前の舞台は、シカゴの有名コース、メダイナ。剣が峰からの最終日。欧州はマキロイ、ローズ、ドナルド達が、最初の5マッチを連取。瞬く間に、形勢を逆転した。その前2010年。そして2006年も、欧州が勝利している。従って過去4回で、米が勝ったライダーカップは、2008年(米バルハラ)一度だけ。要するに、米はこのところ、欧州で連敗中なのだ。そして今年9月最終週。その舞台も欧州。スコットランドの、グレンイーグルス。

最近の力関係。その中でも、特に欧州で開催される時に勝てない米。その悪い流れを断ち切る。その目的で二度目のキャプテンに任命された。それがベテランのトム・ワトソンだった。

然しワトソンには、難問が立ちはだかって来た。それも2つ。

まずタイガー。彼は3月31日腰にメスを入れた。そしてマスターズ、全米オープンを欠場。それでもワトソンは、キャプテンとして「タイガーが順調に復調すれば、彼をライダーカップの代表に加えない手はない」と自信満々だった。

そして迎えた7月の全英オープン。第二ラウンドで、僅かに片鱗を見せはした。だが終わってみれば69位。その後もWGCブリヂストン棄権。終わったばかりの全米プロは、36ホールでカット。タイガーの順調な復帰を、待っていたワトソンの期待は、打ち砕かれた。

ライダーカップの別名は、キャプテンのゲーム。要するにキャプテンの采配次第で、勝敗が決まる、と言われる。

そのキャプテンの前に、辞退を仄めかしたのが、もう一人の看板、ミケルソンだった。

数週前「いまの僕のゴルフでは、代表に相応しくないのでは」と言い出したのだ。アマチュア時代から、長く取材している。ミケルソンには裏表がない。だから多くに好かれる。彼の笑みは(百万ドルのスマイル)。それだけに正直。

6月の全米オープン。それに勝てば、史上6人目の、生涯グランドスラム。パインハーストNo.2は熱狂した。然し一度も優勝争いに絡めず。そればかりか、WBCブリヂストン迄(信じ難いことに)、今季トップ10フィニッシュがなかった。責任感は人一倍強い男。出場に疑問を持って当然だった。

そんな折り、新しい見解が、ワトソンの判断を複雑にした。それはニクラスの発言だ。プロとしてのメジャータイトルは最多の18箇。1977年のライダーカップ。その他プレジデンツカップでも、数度キャプテンを務めた、ゴルフ界の大御所。

彼が「それでも米チームは、タイガーを選ぶべき」と強調したのだ。過去百年を代表する3人。それはボビー・ジョーンズ、ニクラス、そしてタイガー。これは紛れもない事実。全米アマV3を引っ提げてプロ転向した当時から、タイガーはコンスタントに、ゴルフ界の象徴だった。ケガは誰にでもある。それを乗り越えたいま、何はともあれ、タイガーをチームに加えることの重要さ。帝王ニクラスが、言わんとしていることは、それだった。

ライダーカップの代表決定は、米欧両チームとも、今朝終わった全米プロ選手権(ケンタッキー州バルハラ)を受けて行われる。上位9人はポイント。最後の数人は、いわゆるワイルドカード。キャプテンの推薦になる。

米のライダーカップ得点ランク。8月4日の時点で、上位はバッバ・ワトソン、フューリック、ウオーカー、そしてファウラーが4位で付けている。44歳フューリックを除けば、経験者は少ない。

そんな中ミケルソンは11位。タイガーはトップ25位にも入っていない。4ヶ月半で4試合では、タイガーには仕方ないこと。だが、それでも米チームは、タイガーの存在が必要との意見。相手を威圧するためにも。

陣立てに苦慮していたワトソン。彼を救ったのはミケルソン。最終日勝者マキロイを追い上げ、全米プロ選手権で2位に入ったこと。2位は満足する成績ではない。それでもレフティの今季初トップ10は、ワトソンにとって、何よりの追い風。タイガーの不調を補って、余りある嬉しい情報だったはずだ。

同時に若手の多い米チーム。それをまとめ牽引する役として、ミケルソンの(経験という力)が、改めて見直されることになる。

ワトソンが最初に務めたキャプテン。それは1993年のこと。場所はイングランド。この時は拮抗した戦力ながら、ワトソンの米チームは、15対13で勝利。キャプテンの采配が光った。そして二度目の登場で、再度の勝利。その十字架を背負わされたワトソン。彼のキャプテン推薦選手が誰になるか。注目される。

(Aug.11.2014)

蒸し風呂状態のリスク。6年先五輪ゴルフは、大丈夫なのか

 今朝終わった米ツアーでも、逆転優勝したマキロイ。この先暫く、彼の王座は動かない。ただし2020年東京五輪では、彼の前に高温多湿と言う、初めての敵が立ちはだかる(Photo courtesy of GlobalGolf Post)

今朝終わった米ツアーでも、逆転優勝したマキロイ。この先暫く、彼の王座は動かない。ただし2020年東京五輪では、彼の前に高温多湿と言う、初めての敵が立ちはだかる(Photo courtesy of GlobalGolf Post)

6年先のこの時期。日本では東京五輪が、開催されているはず。

期日は7月24日から8月9日まで。米欧からの、テレビ放映権料に依存するIOCは、この時期を動かさない。そうなると、ゴルフは開催が、頗る困難になる。2つの理由がある。

かつて台風と言えば二百十日。9月以降が定番だった。それが昨今8月を通り越し、7月にも発生する。それも結構大型が。期日的には10月だった。とは言え昨年、台風に直撃された日本オープン(茨城GC)は日曜日が中止。最終ラウンドは、月曜日に順延された。その台風が、五輪を直撃する可能性。

それよりもっと深刻なのが7、8月の猛烈な暑さ。当初の予報では、今夏は冷夏だった。ところが梅雨が明けると、連日の真夏日、そして猛暑日。マスコミは「日常生活さえ、異常を来す」との声を連日伝える。その下で競技をする。これでは選手も、間違いなく難儀する。

そこで参考になるのが、陸上マラソン。遠く1984年ロス五輪では、スイス代表の女子選手が、夢遊病者の様な足取りでゴールした。その時の彼女のコメント。「加州のような、蒸し暑さに慣れていなかったので」。

そのロサンゼルス。私は昔、暫く住んだことがある。1月末から2月に掛けての数週が雨期。残り10ヶ月以上、雨の降らない乾期が続く南加州。暑いと言えば暑い。だがアジアモンスーン地帯の、日本と比較したら天と地。遙かに凌ぎやすい。それは湿度の違い。そのロス五輪でもマラソン、特に女子は何人もが棄権。残りもフラフラ状態が、テレビに映し出された。

マラソンの場合、早朝暗いうちのスタート(北京は朝7時半だった)することが可能。さらに競技時間は、男子で2時間余。女子でも2時間半前後。そこで比較されるのがゴルフ競技。世界を旅した旧知、ゲイリー・プレーヤーに言わせると「スコットランド人は速い。18ホールを3時間を切るペースで回る」。だが一般的に、18ホールの所要は4時間。マラソンの約二倍。それが本戦だけでも4日間。練習ラウンドを入れると5日間競技する必要。

それだけではない。ゴルフは(涼しさを求め)早朝暗いうちに、スタートすることが不可能。何故ならボールが見えないことには、勝負にならないからだ。従って炎天下。それも4時間。

私が長いこと本拠地にして来たアリゾナ。ここは半砂漠地帯だから暑い。全米オープンの取材から戻る、6月から9月まで。この頃は連日摂氏で、50度近くに達する。私が体験した最高は、華氏で113度。摂氏にすると52~53度はあったはず。日本の最高気温41度(昨年の高知県)より10度以上の高温。ただし救いがある。湿度が圧倒的に低いことだ。発汗作用は活発。だがかいた汗は、瞬時にして消える。だからシャツも手袋も、濡れる間がない。それでも真夏のゴルフ。多くが日中を避け、早朝または午後遅くスタートする。

ただしこれは、私たち素人ゴルフだから可能なこと。五輪のゴルフ競技を、薄暮で行うことは出来まい。さらに厄介なこと。それは会場に予定されている、霞ヶ関CCの立地だ。

この時期、高温で話題になる地域が多数ある。前述高知の他、岐阜県の一部。そして埼玉の北西部から、群馬の館林に掛けた辺り。霞ヶ関CCはそのエリアに、すっぽり入る。私はこの辺りを、”日本の熱帯地方”と名付けている。

昨年9月。ブエノスアイレスでのIOC決定。それを受け米のブルーンバーグも、五輪の関連記事を流している。

「(高温だけでなく)高い湿度は、体感温度をさらに引き上げる。先月(2013年8月)東京の最高気温が、38度を記録した時。全国で10人以上が熱中症で死亡。数千人が入院した」。

この時ブルーンバーグが危惧したこと。それはマラソンを中心とした屋外競技。ただしその中で、ゴルフは特定されていない。それでもそれは、ブルーンバーグだけが鳴らす警鐘ではない。米のジャーナル・オブ・サイエンスは、さらに歴史を遡って解説する。

「気温38度。もしくはそれ以上の中で、五輪が実施されれば、少なくとも過去120年で、最も暑い環境下での、開催となる可能性」。

さらに付け加える。

「過去最も高い気温の中で行われた五輪。それは1900年のパリ。マラソンは、35~39度の間で開催され、半数以上が暑さにより、途中で落伍した」と指摘。とは言え、同じ気温でも、欧州と日本では、湿度が決定的に違う。

これらの情報を得て、英フラバー大で、環境生理学と人間工学を研究するジョージ・ハベニス教授は「この様な環境でのイベントは、賢いとは思えない」とコメント。

これ迄何度も東京を訪れ、日本の夏を知るだけに「観客の被るリスクも高まる」との指摘も忘れていない。

ただしここ迄、彼らの対象は屋外競技全体。そして象徴としてのマラソン。だがマラソン以上に、高温多湿の蒸し風呂状態に、苦しむのは、紛れもなくゴルフなのだ。

 キリマンジャロの雪が消える。1952年ヘミングウエイの作品「キリマンジャロの雪」が、ハリウッドで映画化された。その時は真っ白い雪に覆われていた、アフリカの最高峰。いまはこの状態だ。

キリマンジャロの雪が消える。1952年ヘミングウエイの作品「キリマンジャロの雪」が、ハリウッドで映画化された。その時は真っ白い雪に覆われていた、アフリカの最高峰。いまはこの状態だ。

 世界中の山岳氷河が、消えつつある現場。(何れも元米副大統領アル・ゴアの著書「不都合な真実」。英語名An Inconvenient Truthから)

世界中の山岳氷河が、消えつつある現場。(何れも元米副大統領アル・ゴアの著書「不都合な真実」。英語名An Inconvenient Truthから)

説明が重複するが、一日のラウンドに要する時間は4時間。これはマラソンの2倍。練習日を入れると、その長時間を5日は過ごす必要。体力の消耗は、計り知れない。例えば、数週前のこのコラムで、東京五輪の金メダル候補として挙げたマキロイ。彼にしても、夏も涼しい北アイルランドの生まれ育ち。プロになった現在も、アジアモンスーン地帯で、真夏の競技は経験がないはず。そうなると、マキロイにも弱点が現れる。それが高温多湿との戦い。それ以上の心配。それは霞ヶ関CC周辺の”日本の熱帯地方”に恐れを成し、メダル候補が直前になって、相次ぎ来日を拒否することだ。

2004年のアテネ。高温だったが湿度は、東京と比較にならなかった。それでも女子マラソンの金メダリスト、野口みずきは、ゴール後嘔吐したと、当時の新聞が伝えていた。

余談だが、この夏も北極海の氷塊。グリーンランドやヒマラヤの氷河は、着実に解けている。その先に見える光景。それはアル・ゴアが著書「不都合な真実」で予測したこと。その一つは、海面の上昇だ。それも5~6メートルの規模で。これらは何れも、地球温暖化と言う共通項で、繋がっている。

6年先の東京。ハベニス教授の言葉にある観客。五輪ともなれば、当然数万枚の切符が、捌ける可能性がある。その時競技者ばかりか、観客にも心配される熱中症被害。

2020年夏。この高温多湿が、急に収束することは、常識的に考えられない。マラソン以上に、五輪ゴルフ競技の、前に立ちはだかる壁。それは予測できない、大きさなのだ。

(Aug.04.2014)