横浜の外人墓地にほど近い、丘の上の山の手教会(聖教会)。ここで執り行われた、一人の女性の通夜と葬儀告別式。千葉でのブリヂストン・オープンの週にも拘わらず、両日とも多くの関係者が参列。特にお通夜の21日は、練習ラウンドを終えたプロが挙って駆け付け、教会から、はみ出したほどだった。
亡くなったのはクリス・トモ(鞆)。未だ五十代の年齢。ポルトガル人の父親と日本人の母親。結婚前の名前はクリスティーナ・リッチー。急性白血病だった。
日本語以上に、英語が先に出る完璧なバイリンガル。その才能を生かし、米企業タイトリストに長いこと勤務。その後独立し、主に日本を主戦場にする外国人プロ(豪NZ米など)をマネジメント。亡くなった15日の週、開幕した米ツアー、Frys.com Open第一ラウンド。66で5位発進した、韓国のドンホワン。かつて彼は2年間の兵役を終えた翌日、即刻東京へ飛来。その先の活動に関し、クリスに相談。2年間のブランクを、短時間で乗り切っている。
3/11の後。息子と契約プロを帯同。子供達への沢山の土産を持参し、被災地を慰問している。
学んだ学校は、アメリカンスクール。部活は乗馬。その関係で、アン王女の元ご主人、Mark Pillips大尉とは、彼が乗馬競技で来日するたびに、アテンドするツーカーの間柄。英王室に窓口を持つ、数少ない日本の個人だった。
年齢は離れているが、JOC竹田恆和会長(日本馬術連盟副会長)は乗馬の出身。そんな繋がりで、竹田会長に対しては、英語の指南役だった。
ゴルフ、そして乗馬はじめ、多くの近代スポーツは、明治維新の前後、英独など欧州から伝わった。その道案内をした欧州人と日本人。彼らに求められたもの。それは言葉だった。数年前、全米オープンの国内予選を通過した、数人の日本人プロ。彼らがクリスに、通訳兼臨時のマネジャーを依頼。急遽米東部まで出掛けたこともあった。
言葉だけでなく、現地会場に顔の利く人間が居なければ、競技では著しく不利。そんな時、クリスは大きくサポートした。
それでも競技をするプロの様に、目立つことはない。だがクリスの様な存在がなければ、日本のゴルフは、ここ迄発展しなかった。
告別式で会った一人は、NZのデビッド・スメイル。「これほど残念で悔しいことはない」と、私の手を握った。かつての日本オープン勝者も四十代半ば。峠を越しているが、それでも先週のブリヂストン。土曜日を終えて、優勝戦線に加わっていた。マネジャーとして、そして親友として、長いこと付き合いのあったクリスに、好成績を捧げたい。その気持ちの現れだったことは、勿論だった。
20日の告別式。教会に溢れた関係者の中には、ゴルフだけでなく、乗馬を始め、多くの五輪関係者も目に付いた。過去数十年、歴史の中でクリスが果たした、世界への架け橋。その役割の大きさを、物語る参列者だった。合掌。
(Oct.26.2015)