米プロゴルフ協会員、活動50年。我が友ノーマンを祝う

 半世紀の、継続の賜物。溜まった50枚の、PGAオブ・アメリカ会員証を、誇らしげに見せるノーマン。素晴らしい快挙だ

半世紀の、継続の賜物。溜まった50枚の、PGAオブ・アメリカ会員証を、誇らしげに見せるノーマン。素晴らしい快挙だ

米ゴルフの、懐の深さ。その一つは、会員であれば、入場券がなくとも、あのマスターズが観戦できる。この柔軟なシステムに在る。

80年代、長期日本に滞在。主に米軍厚木基地、そこで支配人ヘッドプロを務めた、米人ノーマン・レノー。この春77歳の誕生日を通過。一年ごとに、更新される会員カード。それが遂に50枚に到達。併せて協会(PGAオブ・アメリカ)からの、表彰も受けた。

米のゴルフ場数は、約一万七千。それを動かすのはPGAオブ・アメリカの会員。その数は、おおよそ2万5千人。スコアだけで、メシを食うツアープロは、その中のほんの一握り。だからこそ、マスターズでさえ、ノーマンの持つ会員カードが、尊敬を持って、受け入れられるのだ。

ノーマンとの出会いは、80年代初め。偶々日本に戻っていた私に、「基地のゴルフ場の、取材は出来ないか?」との依頼。早速連絡してみると、電話に出たのが、ノーマンだった。気さくな米人の代表。そればかりか、歴史も含めた、ゴルフの知識は豊富。もっと驚いたこと。それは日本文化に対する、とてつもない、思い入れだった。

時折り日本のゴルフ場へ、出掛ける。その時ノーマンは風呂に入らない。基地近く迄ドライブ。そこでタイルに、富士山の絵が描かれた銭湯に入る。そのあとのカラオケ。十八番は矢切の渡し。その頃は、これを全部日本語で歌った。知性の高さ、そして好奇心の強さ。それがなければ実現は不可能なこと。

極め付けは富士登山。或る年、彼は背中に4番アイアン。ポケットに6箇のボールを持ち、山頂に立った。「石ころだらけ。ティアップし6箇全部、打つ積もりだった。でも息切れがして」。

日本人では、湧かない発想。一つの背景。それは富士山に対する信仰。ノーマンはそれを理解していた。それでも実行した。米人の開拓者魂だったのだ。

父親の影響で、ノーマンはプロに。程なくして徴兵され西ドイツ(現在のドイツ)勤務。エルビス・プレスリーのGIブルースと、ほぼ同時期。そこを皮切りに、全米各州。そして日本、韓国。さらにキューバの、グワンタナモ湾基地にある、軍関係者の為の9ホール。ここにも勤務した。

PGAオブ・アメリカの、会員としての、ノーマンの50年の歴史は、世界を股に掛けた、冒険者だったことが分かる。会員が2万5千人もいる。その中では、彼のように、豊かな個性の持ち主が、次々育つ。
約5千人の会員が揃ってレッスンだけで、メシを食おうとする日本とは、大きく違うことが、分かる。

長男ショーンも、PGAオブ・アメリカの会員として、テネシー州でゴルフ場を、切り盛りしている。ノーマンが住むのも同州。だから家族とも頻繁に会える。またフロリダが近い。そのため冬の間は、愛妻ジェニファーと、頻繁に温暖地フロリダでの、ゴルフを楽しんでいる。エージシュートの連絡は、しょっちゅう届く。

またこの夏は2人で、ドイツなど欧州の、懐かしい旅を満喫している。豊かな老後だ。

そして此処でも、米の組織の奥深さが見られる。PGAオブ・アメリカの会員証を提示すれば、ノーマンは米内の大多数のゴルフ場。そこで無料。米のゴルフ場は、それだけ潤っている。と言うことなのだ。

「一、二年以内に孫を連れ、是非日本へ行く。一緒にらラウンドするコース。押さえておいて欲しい。それから大相撲も観戦したい」。

一緒に銭湯に浸かり、カラオケを楽しむ。その日が待ち遠しい。繰り返すが、米のゴルフは大衆のもの。廉価だが堂々たる、スポーツ文化なのだ。

(Dec.29.2014)

PING三代目の陣頭指揮と、ちびっ子相撲への関心

育ちの良さ。さらに大きな成果を、上げ続けることによる自信。それらが表情に溢れていた

育ちの良さ。さらに大きな成果を、上げ続けることによる自信。それらが表情に溢れていた

メーカー別に見た時。今年最も活躍した一社。それは紛れもなく、PINGだった。

4月バッバ・ワトソンが、オーガスタで再び吹かせた、ピンク旋風。それだけではなかった。シーズン掉尾のFedExプレーオフ。この時はハンター・メイハンに続き、若いビリー・ホーシェルも、ビッグタイトルを掌中に収めた。そんなことで、米ツアーの2014年評論。ここでもG30シリーズを筆頭にした、PINGの強さ。それが特筆されていた。

プロ契約の先読みの強さ。アリゾナ州フェニックスの本社。広報担当ピート・サミュエルスが、次のように説明する。

「カレッジからツアーの現場まで。プロ担当の能力の高さと、データの確実さ。それに基づく、経営トップの適切な判断」

PINGで目立ったこと。それは日本国内でも、素晴らし躍進があったことだ。何しろ女子だけで、年間6勝している。3、4年前に比べると、圧倒的に異なる勢い。それを牽引したのが三代目。いわゆる創業者カーステンの孫、ジョンK.ソルハイムの、日本での3年間だった。

PING Japanの正面に、飾られている、約三十年前の写真。レーガン政権を救った、企業としての功績と名誉は、歴史に残る

PING Japanの正面に、飾られている、約三十年前の写真。レーガン政権を救った、企業としての功績と名誉は、歴史に残る

かつて80年代。双子の赤字に直面した米連邦政府。その逆境に立ち向かった、企業の一つがPING。時の大統領レーガンは、カーステンと妻ルイーズを、ホワイトハウスに招待。E Awardを授与している。Eとはエコノミーを意味する。それ程の企業が、気が付いた時、日本の市場占有率で、大きく後退していた。

PINGばかりか、世界の主要メーカーにとって、日本のマーケットは大きく重要。そこを立て直す急務。その切り札に、本社会長ジョン・ソルハイムは、自分の長男ジョンK.を送り込んできた。それから三年有余。PINGは盛り返し、今季の素晴らしい数字に結び付けた。その結果が、国内での今季6勝でもあった。

その話を聞く必要がある。初夏の5月30日。帰国の準備に忙しいジョンK.に無理を言い、1時間のアポを取った。話は大いに弾んだ。

ジョンK.の強みは、経営者自らが、用具開発のスペシャリストでもあること。97歳になった祖母、ルイーズが昔から、目を細めて話していたこと。

「中学の頃から、ジョンK.の遊び場はPINGの、組み立て工場。放課後カーステンの後を追っ掛けるようにして、毎日歩いていた」

ジョンK.は2つの大学(オクラホマ州立大とアリゾナ州立大)で、経営学を学んだ。とは言えコンピュータ世代。彼の若い頭脳は、カーステンの天才的なひらめきに、コンピュータ設計を、自然のうちに加えていった。

人気のドライバーを、手にするジョンK.

人気のドライバーを、手にするジョンK.

例えば各メーカーの新機種発表。通常は開発に拘わった。担当者が壇上に立つ。処がPING Japanでは、ここ数年社長自らが説明した。開発の陣頭指揮も執る経営者の説明。これは強みだ。

一方ジョンK.の祖父で、PINGの創業者、カーステン。彼は日本と日本人をこよなく愛した。70年代から数十年。夫婦揃って毎年一度は来日した。宿泊は帝国。そこで当時5社あった、日本の代理店をはじめ、旧知を招いての夕食。東京で育った我が家の息子2人、彼らがカーステン、ルイーズ夫妻に、初めて会ったのも、そんなことで帝国ホテルでの、夕食の時だっや。

日本が好きな、DNAがさせたのだろう。ジョンK.の長男は、滞在中ちびっ子相撲にも参加している。白人の子供が回し(褌)一つになる。日本文化に溶け込む、積極的な光景。それだけではなかった。

PING Japanの所在は、北区の浮間。目の前荒川の河川敷には、浮間ゴルフリンクスがある。そこでジョンK.を筆頭に、時折り全員参加の、社員ゴルフも行ってきた。河川敷と言えば、日本では安っぽく見られるモノ。そこをジョンK.は「昨日は、浮間ナショナルで」と、笑顔を作った。日本ゴルフの底辺を支える河川敷に、オーガスタ・ナショナルGCを重ね合わせる。センスの良さと日本への愛着。それもPING Japanを、短期間で復活させた、大きな要因だった。

その後アリゾナの本社へ戻ったジョンK.は、そこで引き続き、日本社長としての、務めも果たしている。

「グローバル時代のいま。仕事をする場所は、何処でも同じ。特に日本のスタッフは、責任感が強く能力が高い。アリゾナに帰ったいま。有利な点があるとしたら、それは自分の言葉での日常会話。それが通じる範囲が、少し広がることかな」と、40歳を過ぎたばかりの、若い経営者は、はにかむ。

21世紀のいま。企業、そして経営者に求められるモノ。それが着実に、変化している。ジョンK.の日本での3年間は、それを如実に語っていた。

(Dec.22.2014)

黒人シフォード92歳。米大統領自由勲章受賞。その光と影

 かつてWASP(アングロサクソン系白人で、宗教はプロテスタント)の象徴だった、首都ワシントンのホワイトハウス。そこでアフリカ人を父に持つ大統領から、メダルを授与される黒人プロ、シフォード。米社会の、過ぎ去った一世紀の歴史が、凝縮されているようだ(photo coutesy by PGA of America)

かつてWASP(アングロサクソン系白人で、宗教はプロテスタント)の象徴だった、首都ワシントンのホワイトハウス。そこでアフリカ人を父に持つ大統領から、メダルを授与される黒人プロ、シフォード。米社会の、過ぎ去った一世紀の歴史が、凝縮されているようだ(photo coutesy by PGA of America)

1936年(昭和11年)ベルリン五輪。ジェシー・オーエンスは、陸上短距離などで、4つの金メダルを獲得。その中継の米の映像で、躊躇なくNegroの表現が、使われていた。

その後黒人を経て、現在はアフリカ系。呼び名が変わっただけではない。当時米南部で、彼らは家畜扱い。乗り合いバスも、前の座席は白人がゆったり。その一方で彼らは後部座席に押し込められた。

マーチン・ルーサー・キングが登場、公民権法の施行が1964年。20世紀初頭は、プロ野球の二グロ・リーグも存在した。肌の色の違い。その差別を乗り越えた1947年。あのジャッキー・ロビンソンが、黒人初の大リーガーに抜擢された。

年齢も、活動した時代も大きく異なる。それゆえ私はシフォードを、直接取材したことはない。その92歳黒人プロが、今回大統領自由勲章を授与された。「米の国益や世界平和の維新。文化活動他の貢献者」が対象になるもの。米ゴルフ界では3人目。これ迄の受賞者2人は、パーマーとニクラス。彼らと比較した時、多くが異質を意識するかも知れない。何れにしろ、シフォードの生まれは1922年。南部の農村ノースカロライナ州。記述した通り、彼の人生前半は、米社会の壮絶な差別が存在した。その時代だった。

リー・エルダー達、数世代下のアフリカ系には、取材もしている。そのうちの一度は、1975年のマスターズだった。だがシフォードとは面識もない。そこで連想させられるのは、反骨精神との言葉。恐らく間違いないはず。

大統領自由勲章を贈られた11月末。シフォードの、次のようなコメントが、ホワイトハウスから出ている。

「私の人生は闘いだった。何故なら私は闘争心が旺盛だったから。その結果、人生の終盤でこれだけ多くの黒人が、ゴルフを楽しむ光景に、接することが出来た」。

マスターズの舞台、オーガスタ・ナショナル。ここでは長いこと、プレーする旦那衆は白人。黒人の役割は、キャディなど下働きだった。シフォードも13歳でキャデイ。そこでゴルフの腕を上げ、1952年のフェニックスで、ツアー競技初出場。これは当時のヘビー級王者、ジョー・ルイスの推薦があった結果。そして1957年ロングビーチオープンで初優勝。その後1975年の全米プロシニアでも優勝。2004年には、黒人として初の、世界ゴルフ殿堂入りを果たした。

またセントアンドルーズ大(スコットランド)から名誉博士号。また米GCSAA(全米ゴルフコース管理者協会)からは、最高の栄誉トム・モリス賞も贈られた。肌の色がどうであれ、堂々たるゴルフ界での実績だ。

この発表があった直後。ニクラスが透かさず、コメントを出している。

「彼の授賞は、記録が対象になったモノではない。チャーリーは、米社会のバリアを取り除いた。その中でも彼は、常に重々しさや気品を、失わなかった」。

1958年。18歳の天才ニクラスが、米ツアー競技に初出場したのは、オハイオ州ファイアストンCCでの競技。彼の話によると「その時、私が最初の2ラウンド、同組になった1人がシフォード」だった。それだけに印象は、強かったはずだ。

一方で、このタイミングで、92歳黒人に、大統領メダルが贈られた背景。それはレームダック化した、大統領オバマの、話題作りとの見解もある。勿論のこと、それを裏付ける証言もある。

広大な米で、私は本拠地を2つ持つ。それらはアリゾナと、加州のロングビーチ。後者には私の編集担当プロで、PGAオブ・アメリカの会員でもある、スティーブ・クックが住んでいる。そのため。頻繁に訪れるし、それ以上に多くの情報も届く。然もシフォードが、プロ初優勝したのは、1957年のロングビーチオープン。そんな歴史も在り、シフォードの話は、折に触れ長いこと酒の席で語られてきた。

「キャデイに優しい言葉を、掛けた姿を見たことがない」。「キャデイフィーを、約束通り払わず、値切った」など。

公民権が施行される前の米国で育った。その時のエネルギー。それはもしかして、反骨精神だけだった。その裏返しが、ロングビーチ周辺で、語り継がれている、チャーリー・シフォードの、陰の部分なのかも知れない。そう思うと92年という歳月は、実に長く貴重だ。

(Dec.15.2014)

NZ人プロ、スメイルが、校長先生になる

 195センチは、流石に大きい。だがゆったりした、ニュージーランドで育っただけに、人当たりは頗るソフト。日本にもファンは多い

195センチは、流石に大きい。だがゆったりした、ニュージーランドで育っただけに、人当たりは頗るソフト。日本にもファンは多い

年末はプロ野球選手の、契約更改の話が賑やかだ。40歳を過ぎた例外もある。だが多くは30代。中には20歳を、僅かに過ぎて解雇を、言い渡される若者も少なくない。才能の勝負だけに、スポーツで身を立てる。端で見るほど、簡単でないことが判る。

ニュージーランド(NZ)人、デビッド・スメイル。195センチの長身プロは、02年の日本オープン(下関GC)覇者でもある。そのスメイルが校長先生になることを、本気で考えている。

野球、サッカーなどに比べ、ゴルフの選手寿命は長い。とは言えスメイルも44歳になった。そして今季76位。来日以来初めて、賞金シードを失った。かつて賞金ランクの最高位は、2度の5位。そして日本ツアー5勝のベテランも、一歩立ち止まる時が来た。

「来季も日本でプレー。さらに50歳を過ぎたら、日本のシニアも、視野に入れている」。

それとは別に、スメイルが考え始めたこと。それは18年に及ぶ彼の人生。

「97年に初来日以来、18年を過ごした。その間に日本オープンのタイトルも獲れた。米から来ていた、ハミルトンやジョーブ。彼らも多くの勝利を収めた。でも日本のナショナル・オープン選手権には、手が届かなかった。

それを考慮した時、僕には遣るべき、もう一つの役割がある。それは現役を続ける一方で、日本の若者にゴルフの指導をする。その中から、将来日本オープンで優勝。さらに海外に飛躍できる素材を育てる。そのこと」。

シーズンを終えて帰国したスメイルの、アイディアの一つ。それは日本と比較にならない、NZのゴルフ環境。最大の違い。それはゴルフに要する料金。日本が高すぎるのか。それともNZが正常なのか。

日本を主戦場にするスメイル。彼は12月からの3ヶ月以上、トーナメント活動はない。その間に、日本からの若者を、ニュージーランドで引き受ける。年齢層は2つ。プロを目指す18歳以上の年齢。もう一つは中学高校生のグループ。

「日本人は2つのことを、一度に学ぶことが憧れ。ゴルフを上達させながら、英語も喋れるようになること」。

スメイルは、そこにも着目している。これは彼が、日本で18シーズン過ごして、得た感触。

これだけではない。シーズン中もトーナメントのない週がある。その時今度は、日本国内で老若を集め、全国各地でゴルフの巡回指導を行う。必要に応じアシスタントを付ける。とは言え、校長先生として、リーダーシップを執るのは、スメイル自身。日本ツアーで18年の44歳が、辿り着いた考えの一つ。それがゴルフ学校の校長先生だった。そんな中でも、彼が特に意識したこと。「それは日本オープンの重み」だったと言う。

「日本オープンのタイトル。これを獲れるのは、年に一人しか居ない。日本人の多くが、それを生涯の目標にしている、僕は外国人で、その名誉を得た。これは本当に有り難いこと。日本を主戦場にする、他の外国人プロ以上に、この名誉に対し、だから僕は恩返しをしたい」。

妻シェリーとの間に、2人の子供にも恵まれたスメイル。ニュージーランドでの日常は、貸しビル等の副業まで順調。その余裕ある環境が「日本で後進を育成する」発想に繋がったことは当然だった。

「NZの人口は450万人。少子化と言われ、人口減少が始まった日本、だが依然1億2千万人の国。そればかりか野球を楽しむ子供達は、大変な数、恐らく三、四十万人は、と僕なりに推測する。不思議なこと。高校卒業後、彼らが野球を継続しいる。その話を殆ど聞かないこと。だったらゴルフを遣りなさい。

僕も大きいが、テレビで観る高校球児は、多くが体格的に恵まれている。ゴルフプロの眼に映る彼らは、ゴルファーとして、育て甲斐のある素材。それが日本には沢山いる。食指が動きます」。

日本とニュージーランド。夏冬は逆。だが時差は僅か3時間。飛行時間は9時間余。いまや何処もLCC時代。校長先生スメイルの実力発揮。そして日本ゴルフ界への貢献が、期待される。

(Dec.08.2014)

先週末の感謝祭の休日。52年前の映像を楽しむ

 感謝祭のディナーを差配するバーバラを、、頼もしく見守る夫ジャックと5人の子供たち。家族愛が溢れる、素晴らしい光景だ

感謝祭のディナーを差配するバーバラを、、頼もしく見守る夫ジャックと5人の子供たち。家族愛が溢れる、素晴らしい光景だ

先週末は感謝祭。多くの米国の仲間が、祝いのメッセージ。そして写真他を交わしていた。

facebookも例外ではなく、ニクラスの処からも、2枚の写真とコメントが添付された。

一枚は1979年、感謝祭夕食の光景。長男ジャッキーと、次男スティーブン。2人は随分大人びているが、ゲイリーと末っ子マイケルは、未だ子供々々している。

ニクラスの口癖。それは「プロとしての18箇のメジャータイトル。これは前人未踏の記録であり、誇らしいモノ。だが私にとって生涯の幸運。それはバーバラと出会え、5人の子供に恵まれたこと」。

その結果の22人の孫。10月も半日仕事先で、一緒に過ごしたが、家族の話をする時のニクラスは、目を細め、途端に好々爺に変身する。

1979年。ニクラスにとって実は、良くない年だった。オハイオ州立大を2年で中退。その後1962年全米オープンで、ツアー初優勝。以来17年続けていた、毎シーズン優勝の記録が、途絶えた時だったのだ。

それを切っ掛けに、一部プレースタイルばかりか、体型や髪型も変えた。それまでOhio fat(オハイオのデブ)と野次られた体型をスリムに。またGIカットを長髪にも変形した。そして翌80年、バルタスロルの全米オープン。ここで「Jack is back!!」を果たすのだが、感謝祭はその7ヶ月も前のこと。言わばどん底状態での、家族7人での感謝祭の夕食。然し和やかさは、少しも失われていなかった。

先週の感謝祭週末。米のFOXテレビがオンエアしたのは、1962年全米オープンの映像。ニクラスの話に拠ると「USGAが管理しているアーカイブ」だそうである。それはニクラスの、メジャータイトル18箇の、第一歩が踏み出された時のもの。相手は”King”パーマー。舞台は彼の本拠地、ペンシルベニア州オークモント。州境を持つが片方は、フィラデルフィアの在る東部。一方のオハイオは中西部。いわゆる田舎。然もニクラスは、パーマーより11歳下。その若造が憎たらしいほど強い。

72ホールは283のタイ。翌日18ホールで、行われたプレーオフは、ニクラスが勝利した。それもKingの本拠地で。米ばかりか、海外のゴルフ界では、永遠に語り継がれる、名勝負の一つ。半世紀以上が過ぎても、多くが記憶するその場面。加えて感謝祭週末は、苦しかった開拓時代を思い起こし、歴史に感謝する時。だから七面鳥料理を食べる。その後父と息子が、庭の芝の上で、フットボールを投げ合い、絆を確かめ合う。その時間帯。午後3時からの放送。家族で楽しむテレビ番組として、ニクラス、パーマーの熱戦は、打って付けだった。

 FOXテレビで放送された、1962年全米オープンの映像。52年が過ぎても、迫力は色褪せて居なかった

FOXテレビで放送された、1962年全米オープンの映像。52年が過ぎても、迫力は色褪せて居なかった

1962年と言えば、東京五輪の2年前。映像は勿論モノクロ。歴史を回顧し楽しむためには、またとない機会。

翻って日本のテレビ。一部マスターズの再放送が視られる。だが多くの場合、正月のゴルフ番組と言えば、いま売れているプロを、お笑いタレント。彼らと組み合わせただけの、バラエテイ番組しか出てこない。昨年だったかは石川遼と、とんねるずの組み合わせ。これは明らかに、送り手側の発想が、貧弱安易過ぎることの結果。そんな体たらくを続けているから、シーズン中のトーナメント中継。その数字(視聴率)が、どん底目指して、落ち続けて行く。自業自得なのだ。

テレビの視聴率。今季これ迄のものが、手許に届いている。何れも3%前後の厳しい数字。「せめて女子プロとの合計で、10%に届くと」。そんなため息が聞こえる。然し日本のプロゴルフの、テレビ視聴率が回復する期待。それはほぼゼロ。それはツアーの組織や、テレビ局が、目先の0.1%の数字に、自転車操業している。その結果長期的なスパンで、全体を見渡す能力が、欠落するからだ。

1962年の全米オープンに匹敵する名勝負。それは日本にも残っている。例えば1988年、そして1989年の日本オープン。ジャンボ尾崎が、連覇した時のもの。双方とも大詰めにドラマがあった。その場面を思い起こすだけでも、1千万ゴルフ好きは、わくわくするはず。四半世紀も昔の映像だけに、若い世代には、それぞれに新鮮な情報にもなる。

米の感謝祭からクリスマス迄は、日本の正月と同じ。その時これらを茶の間に届けることで、歴史を掘り起こす役割も担える。まさに一石二鳥。場合によっては、ニクラスやパーマーの、全米オープンの映像でもいい。

そこでカギを握るのは、制作する側の知識。米英では高がゴルフでも、歴史家historianが活躍する。その影響もあり、週末パブリックコースで遊ぶ大衆ゴルファー。彼らでもジョーンズ、へーゲン、サラゼン達の、故事来歴に関する雑学も豊富だ。それはテレビ等の報道機関が、根気よく丁寧に情報を、送り続けているからに他ならない。

日本ゴルフ界の、決定的な弱点。それは歴史(ことに世界の)を理解し、熟知した人間が、余りに少ないこと。居たとしても、それは知ったか振り。そのため、縦しんば1962年全米オープンの、映像を素材として渡されても、それは豚に真珠で終わることになる。

数十年も昔の映像は、歴史書を読むに等しいこと。それだけでも新鮮だ。感謝祭の週末。午後3時から全米で放送された、モノクロ映像。どの様な視聴率が出たか。その報告が待ち遠しい。

(Dec,1st.2014)