商品価値急落タイガー。湾岸地区にも、見捨てられる

かつてクリント・イーストウッドにも、勝利(AT&T)を祝福されたタイガー。ドバイもカタールも、年明けもう彼に、関心を示さない

かつてクリント・イーストウッドにも、勝利(AT&T)を祝福されたタイガー。ドバイもカタールも、年明けもう彼に、関心を示さない

「もうタイガーは、要らない」。その台詞を、こんなに早く聞こうとは。

豪華自家用機で現地入り。賞金とは別に、アピアランス・フィー(出演料)が、最大3億円。一年前の冬には、その後ソチに立ち寄る。そこで恋人リンゼイ・ボンを応援する。そんな話も、持ち上がっていた。そうなった時、テレビ局の、喜ぶまいことか。

尤もケガが回復せず、リンゼイは五輪を断念。その結果タイガーが、銀世界で脚光を、浴びることはなかった。

米ツアーは、一年前からシーズンを、通年開催に移した。秋はフットボールの季節。そこで実施されていた、小規模トーナメントも、例のFedExポイントの対象にしたこと。だが、どう足掻いても、これらは一軍半から二軍戦。タイガーたち看板にとって、知ったことではない。それより冬期の数ヶ月。彼らには一シーズンの、旅の疲れを癒やす。一方でアジア、欧州、湾岸地域へ大名旅行しながら、目の眩むようなカネを稼ぐ。そんなファーストクラス・ビジネスも、ことタイガーに関する限り終わった。

かつてはカシオなど、日本の秋もタイガーにとっては、上得意さんだった。その日本が駄目になると、後は専ら湾岸地区。ことにドバイとカタール(時期的には1月後半)。毎年そのどちらかが、長いことタイガーに、3百万ドルのギャラを、払い続けて来た。だがその湾岸の春も、来年はもう来ない。

これら湾岸地域のトーナメントが、2ヶ月近くも前。「もうタイガーは不要」と公表したのだ。理由は簡単。ツアープロとしての、タイガー・ウッズの、商品価値に先が見えてきたこと。高額の出演料を払って迄、呼ぶ意味が消滅した。ショービジネスの世界での掟。簡単な理論だ。

勿論タイガーも、それは百も承知。高額の離婚慰謝料は取られたが、依然としてツアーきっての高額所得者に、変わりはない。12月には、ワールドチャレンジをホストする。そのあと来春の、サンディエゴ迄は、リンゼイとの甘い生活を、満喫するはずだ。

この変化に、私は大きな拍手を送っている。これによって多少なりとも、タイガーが招いた、ゴルフ界へのインフレが沈静化する。そのことへの期待があるからだ。現在タイガーの代理人は、スタインバーグ。ただし彼は、取り立てた役割を、果たしていない。昔タイガーに、とてつもない価値を、付けたのはマネジメント会社IMGの2人。創業者マコーマック会長。その下で具体的に動いたのが、副社長ヒューズ・ノートンだった。

1996年夏。全米アマV3を達成した、その夜。スタンフォード大を2年で中退。プロ転向させる。ヒューズとしては、ギャラを得ての、海外からの招待は、端から大歓迎だった。私のインタビューに、答えは当初「25万ドル」だった。それが96年秋のうちに、瞬く間に2勝。更に年明けマスターズで、2位カイトに12打差の圧勝。その結果ギャラは、毎週の様に跳ね上がり、遂に3百万ドルの大台を付けた。

他にも、契約2社(タイトリストとナイキ)の支払いが合計70億円。歩調を合わせるように、テレビ各局もツアーへの放映料を、大幅に上げた。それに呼応し、他のプロの契約金。そして多くのゴルフ場のプレー代金も、高騰した。タイガー登場が招いた、完全なインフレ。ゴルフ界全体に、ボディブローとして効いた。

タイガーが、全米オープン初優勝した西暦2千年。この頃米の新設コースは、年間4百を数えた。それがここ数年は一桁台。一方で廃業するコースも増えている。タイガーの登場は、結果的に、ゴルフ産業の世界的な、斜陽化を早めた。そんなタイミングで、湾岸地区もタイガーを見捨てた。当然のことだった。

そもそもタイガーは、5年前既に地に墜ちた。例のセックス依存症に拠る大醜聞。それでも2013年のシーズン5勝で、何とか面目は保った。だがその後がいけない。アマチュア時代から、手術を繰り返した左膝。加えてアキレス腱、腰から背中まで痛み出す。それを除去するため腰の手術。マスターズ直前の、今年3月31日だったことが、緊急の度合いを物語っていた。

然し手術はしたモノの、痛みは消えず。その結果の活動続行の不可。上得意だった湾岸地区からも、見捨てられたことで、タイガーの上がり目は、ほぼ消えた。そう見て間違いなさそうだ。

12月30日の誕生日で、39歳になるタイガー。11年後、彼はチャンピオンズ・ツアーに、関心を示すのか。それとも、車椅子の生活が、待っているのだろうか。

(Nov.24.2014)

68年ぶり。全英オープンが、北アイルランドに戻る背景

 優勝杯クラレット・ジャグを前に、喜びの発表をする、ポートラッシの代表者たち。右から2人目は、R&Aの責任者、ピーター・ドウソン専務理事

優勝杯クラレット・ジャグを前に、喜びの発表をする、ポートラッシの代表者たち。右から2人目は、R&Aの責任者、ピーター・ドウソン専務理事

ゴルフと言えば、スコットランドのゲーム。その印象が強い。とは言え、アイルランドも、ほぼ同じような、地形と気象条件を持つ。それ故に一級のコースは多い。

首都ダブリンに近い、バレーバ二オン。そして南のラヒンチ。これがアイルランドの一、二位ランク。一方の北アイルランド。ここを代表するのは、何と言っても、ポートラッシだ。過去アイルランドで、一度だけ開催された全英オープン。遠く1951年。その舞台がポートラッシ。そこに全英オープンが戻る。2019年と言うから5年後。68年ぶりになる。

理由は言わずもがな、ここ数年の、北アイルランド勢の活躍だ。

2010年の全米オープンを制した、グレアム・マクドウエル。2011年クラークが全英オープン。その後若いマキロイが、2011年全米オープンを皮切りに、2012年の全米プロ。そして今年は全英オープンと全米プロで、メジャー2冠。年明け4月のマスターズを獲れば、ニクラス、タイガーに続く若さで、生涯グランドスラムに届くことになる。

今まさに北アイルランド勢は、日の出の勢い。地元ファンは、全英オープンで、自分たちのヒーローの姿を見たい。当然大量の切符も捌ける。主催R&Aにしても、それを見逃す手はない。それら諸々の要望が重複。その結果2019年、ポートラッシでの開催が決まったモノ。

ここで小さな2つの島と、その間に横たわる、アイルランド海の説明が必要になる。ご存じの通り、これらの島は民族的に、入り組んでいる。そのためサッカーW杯には5つのチームが、欧州予選に駒を進める。それらはイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランド。そして別の独立国アイルランド。その英本島とアイルランドの間に横たわるのが、アイルランド海。

全英オープンが、そのアイルランド海を渡ったのは、過去一度だけ。それが1951年であり、その時のコースがポートラッシだった。

設計者はオールド・トム・モリス(父)とヘンリー・コルト。2人の作風は、グリーンを複雑微妙にしたことで、コースとしての奥深さを、より大きくした。例えばパー3の14番は別名災難Calamity。それだけに、ここポートラッシへの、68年ぶりの全英オープン復帰は、大きな期待が持たれる。

そのポートラッシに戻る背景。そこに在るのは、このところ続く、北アイルランド勢の活躍に他ならない。

古い話になるが、クラークの父親は、ここポートラッシの、グリーンキーパーだった。その環境が、彼にゴルフと馴染む環境を与えた。全米オープン優勝の後、フロリダ州レイクノナに、本拠地を移したマクドウエル。それでも彼は、ポートラッシの自宅を、残している。

それに加え、遠くないハリウッド育ちのマキロイ。これだけの看板が、地元に揃えばR&Aも、アイルランド海を渡らない理由がなくなる。

ましてや2019年。マキロイは30歳になる。競技者として、最も脂が乗る頃。68年ぶりのポートラッシで、地元プロが優勝する可能性は、頗る大きいと言える。それこそ、スポーツビジネスにとって最も大切な要因。大入り満員が期待できる。

ところで、その68年前(現在からでなく、勿論2019年から逆算して)は、第二次大戦の爪痕が、強烈に残っていた頃。何しろ1945年迄、全英オープンも、6年間開催することさえ、出来なかったのだから。

オールドコースで行われた、1946年復興全英オープンは、サム・スニードが優勝。ただしその時2位だった、南アフリカのボビー。ロック。そして追い掛けた豪州のトムソンの時代が続いた。

ポートラッシでの1951年は、その間隙を縫い、マックス・ファルクナー、そして南米のアントニオ・セルダが争い。2打差でファルクナーが優勝した時だった。そしてパーマーの連続優勝(61、62年)を切っ掛けに、ビッグ3(他にニクラスとゲイリー・プレーヤー)が支配する、黄金の60年代が開幕することになる。

全英オープンを中継する、日本のテレビが関心を示すのは、日本人プロの成績だけ。そのため多数の私の知人は、日本の地上波を視ない。そんな国だが、これらの歴史を知ることで、テレビ観戦の楽しみは、間違いなく増す。そうなったら、素晴らしいことである。

その時までに私も、久々にアイルランドを行脚。ポートラッシのリポートも是非、読者に届けたいモノだ。

(Nov.17.2014)

Dameローラ。スポーツ界鉄の女。51歳21勝目を、一打差で逃す

 他の同世代が、既に女子のシニア、レジェンドツアー入りしているにも拘わらず、51歳で依然優勝を争えるローラ。かつて55歳でANA優勝を果たした、ジャンボ尾崎の活躍を彷彿させる。多くのファンに、夢と興奮を与えた一週間だった

他の同世代が、既に女子のシニア、レジェンドツアー入りしているにも拘わらず、51歳で依然優勝を争えるローラ。かつて55歳でANA優勝を果たした、ジャンボ尾崎の活躍を彷彿させる。多くのファンに、夢と興奮を与えた一週間だった

世界に名を馳せた鉄の女(Iron Lady)として知られるのは、マーガレット・サッチャー。伝統ある英国で、初の女性保守党党首。そして初の女性首相。そればかりか、1982年には、フォークランド島での、アルゼンチンとの戦争を受け、相手を降伏させている。鉄の女の面目躍如だった。

女性のスポーツ選手だから、政治家よりは愛嬌がある。それでもローラ・デイビイズには、かつての女宰相の姿が、オーバーラップする。最大の共通点。それは歴史を創ったことだ。

先週のミズノクラシック。51歳のベテランは、最終日を首位タイでスタートしている。

それより前、彼女には女王陛下から、Dameの称号が贈られている。これは男性のナイトに相当する名誉。例えばサー・ニック・ファルド同様、彼女の名前の前には、必ずこのDameが付けられる。

過ぎ去った約40年。世界の女子ゴルフを、大変革させた功労者が、2人いる。ナンシー・ロペスと、もう一人がこのローラだ。

前者は、それ迄マイナーの田舎芝居でしかなかった、女子プロゴルフ。そこに米三大ネットワークの、過激な取材競争を呼び込んだ。それに続いたローラ。彼女は欧州に女子プロゴルフの、爆発的な人気を植え付け、現在のワールドワイドな、成功に導く道筋を付けた。その功績だった。

ソルハイムカップは、その存在すら、日本では殆ど知られていない。1990年に産声を上げた、米欧の女子プロ対抗戦。言わば女性版ライダーカップ。兎角ここで脚光を浴びたのは、アニカ・ソレンスタム。それは年齢的な、偶然があった為だ。

2年に一度、個人と国の名誉を賭けた大一番。その名が示す通り立ち上げ、そして現在もスポンサーしているのは、人気メーカーPINGのオーナー家族ソルハイム・ファミリー。創業者は、アメリカン・ドリームを達成した、カーステン・ソルハイム。1990年秋。フロリダ州レイクノナで実現した、歴史的イベント。彼ソルハイムに、女性版ライダーカップの、アイディアを膨らまさせた、女子プロこそ誰あろう。ローラだったのだ。

英雄の登場は、何時の時代でも鮮烈だ。私がローラを初めて取材したのは、1987年の全米女子オープン。ローラ24歳の時。太めの178センチは、何と言うことなかったが、ふくらはぎの巨大さに度肝を抜かれる。むかし取材した横綱北の湖。彼でさえ裸足で逃げ出すのでは。そう思わせる程の太さだった。

この時は、3人によるプレーオフ。この体躯にものを言わせたローラは、パーシモンの3Wで、岡本のドライバーを、キャリーする。ジョアン・カーナーを交えた延長戦を、ローラはあっけらかんとして勝ち取る。続いて翌年スウェーデンのノイマンが勝つ。女子ゴルフで、長いこと続いていた、米の優位が静かに崩壊。その切っ掛けを作ったのは、紛れもなくローラだった。

ちなみにソルハイムカップ。90年を皮切りに、ローラは92、94、96、98、00、02、03、05、07、09、11年合計12度代表としてプレー。そのうち92年など4度、欧州にソルハイムカップを持ち帰っている。その間に挙げたポイントは25。出場回数の多さと共に、これは圧倒的な記録として輝いている。

それでも晩秋の、ミズノクラシック最終日。9人の4位タイの一人に終わる。史上最年長51歳での、ツアー21勝目(世界合計では88勝している)はならなかった。だが歴史を知るファンにとっては、うたかたとは言え、良い夢を見させて貰ったはず。

実績を必ずしも、その通り評価されることなかったローラ。いわゆる貧乏くじを引いたこれ迄。とは言え遅まきながら、世界ゴルフ殿堂入りも決定。来年7月にはセレモニーに出席する。

1996年のソルハイムカップは、英国の一部ウエールズで行われた。その時ローラは深紅のオープンカーで、会場入りした。女子プロでは破格の成功を、成し遂げた彼女の、デモンストレーションに、多くが拍手を送った。

1987年の全米女子オープン。そして幾度ものソルハイムカップ取材。加えて私には、もう一つ。ローラとの接点があった。シーズン最初のメジャー、ナビスコ選手権。その前哨戦と位置付けられた競技が、かつては3月末のStandard Register PING。舞台のムーンバレーCC(アリゾナ)は、長いこと私のホームコースの一つ。そこでローラは1994年から、4年連続優勝している。

彼女は全米女子オープン等、四大競技の他の3つは優勝している。そんな中ただ一つ届かなかったのが、ナビスコ選手権。その前哨戦で、4連破を達成しながら。これは巡り合わせの悪さ。それ以外何ものでもなかった。

最後に些細な事だが、実に大切な話を一つ。1987年秋。都内のホテルで、来日したローラの、全米女子オープン優勝祝勝会が行われた。スポンサーは、勿論用具契約をしていたマルマンゴルフの片山豊社長。その場を仕切ったのは、元NHKの有名アナンサー羽佐間正雄さん。冒頭彼が、次のように切り出した。

「皆さんに確認したいのですが、彼女の名前はデイビイズであって、デービースでは、ないんですよ」。

それより前1980年。全米オープン2位で、一躍名の売れた青木功。ただし長いこと、海外で彼は「アイセオ・エオキ」と発音されてきた。固有名詞を間違って呼ばれることは、当人にとって、嬉しくないこと。アナウンサーが本業の羽佐間さんは、その重要さをしっかり把握。パーティが始まる前に、主賓の名前に対する、正しい発音を、出席者全員に伝えた。素晴らしい気配りだった。

既に27年も昔のこと。この時の光景を、正確に憶えてはいない。だがDameローラ・デイビイズにとって、人生最高の一夜だったことは、想像するに難くない。

(Nov.10.2014)

過去50年。トレビノとチチは、連日百人にサインをしてきた

脱帽し、敬意を表してニクラスに挨拶する、今季メジャー2勝のマキロイ。場所はライダーカップの、グレンイーグルス。相手の目を見て、話すことの大切さ。そこに相互信頼が生まれる

脱帽し、敬意を表してニクラスに挨拶する、今季メジャー2勝のマキロイ。場所はライダーカップの、グレンイーグルス。相手の目を見て、話すことの大切さ。そこに相互信頼が生まれる

65歳以上の3千万の一人に、なった今では困難なこと。だが髪が未だ黒かった頃。トーナメントで、何度もキャディを体験した。

最初は金髪のスウェーデン娘、ピア・ニルソン。加州サンノゼでの、1983年最終戦。翌年にはリー・トレビノ。さらにチチ・ロドリゲス、ゲイリー・プレーヤーと続いた。選んだ条件は、世界的なプロで、背格好が似ていること。

その中でも、トレビノとチチの、大衆性は圧倒的。ラウンドが終わると、連日80人から百人の、観客が列をなす。サインを貰うため。その間ズッと立ち続け、と言う訳には行かない。乗用カートに座り、出されるプログラムや色紙に、次々サイン。渡す時、相手の目を見て一声掛ける。

相手が子供なら「宿題は、積極的に遣っているな?」「親の言うことを、よく聞けよ」など。また女性ファンは、殆どが手を伸ばし、握手を求める。

朝の練習場。前列に子供の姿を見付けると、チチは直ぐさま「ボール、打ちたいか?」と声を掛け、ロープの内側へ招き入れる。当人と家族ばかりか、他の観客も即座にチチに好意を持つ。トレビノにしても同じこと。それにしても毎日80人も百人も。大変なエネルギーだと思うが、彼らは平気だ。

1984年、全米プロで6個目の、メジャータイトルを獲得した、2ヶ月後のトーナメントで、トレビノのキャデイをした筆者。ニクラス同様、私が最も多くの、教えを受けた先輩がトレビノ。彼は目の前に客が、一人でも居る間は、笑顔を振りまき、トコトン喋り続けた。ただしサービス出来るエネルギーには限度がある。そんなことで彼は、ホテルの自室に消える時間も早かった。

1984年、全米プロで6個目の、メジャータイトルを獲得した、2ヶ月後のトーナメントで、トレビノのキャデイをした筆者。ニクラス同様、私が最も多くの、教えを受けた先輩がトレビノ。彼は目の前に客が、一人でも居る間は、笑顔を振りまき、トコトン喋り続けた。ただしサービス出来るエネルギーには限度がある。そんなことで彼は、ホテルの自室に消える時間も早かった。

米のゴルフには、かつてのジョーンズ。そしてホーガン、パーマー、ニクラス達。圧倒的な主役。それを個性豊かな脇役が、支えてきた。その代表がトレビノであり、チチだった。2人の名前が出ると、速射砲の如く喋るトレビノ。そしてバーディパットの後。パターを剣に見立て、相手を突き刺す演技のチチ。兎角これらが強調されがち。とんでもない。彼ら2人で観客に与えたサインの数。それは天文学的数字。それはそのまま、開拓してきたファンの数でもあるのだ。

欧米ツアー勢。彼らを目の当たりにすると、日本人プロの社会への、参加意識の低さに驚く。

十月末のブリヂストンOpen。最終日。終盤の組が終了すると、ハウス前に長い列ができる。ところが此処に、コミュニケーションがない。サインするプロは、笑顔を作るでなし。ましてやトレビノ、チチのように、声を掛けることもしない。

「何と勿体ないこと。コースまで来た客の心を掴む、絶好の機会を逃している」。それが私の素直な印象だった。

この時、男子ツアーは同じ千葉県で、2週続いた。それも理由の一つで、ブリヂストンOpen最終日は、不入りだった。最大の原因は「観たいプロが、殆どいない」(観客の声)。

昔のジャンボ尾崎や、数年前の遼の様な、人気者は滅多に、生まれるモノではない。そんな冬の時代こそ、小さい努力の積み重ねが必要。その一つの手法が、サイン時の、ファンへの声掛けなのだ。

前出のトレビノやチチ。彼らが開拓した、ファンの数は、途方もない数字。追い付くことは困難。だが参考にはなる。その一つが、サインを渡す時の、笑顔と一言。

これは選挙と同じ。声を掛けられ、握手をすれば、人間の心理として、相手に好意を持つ。ゴルフの場合、それが翌年の来場に、結び付く。

簡単なロジック。そんなことも分からず、袖ヶ浦CCで目撃した、日本ツアーのプロ達は、長蛇の列を作った観客に、笑顔も声も、殆ど与えていなかった。それより何より、鉄柵での仕切りは、冷酷過ぎないか。

私の近くにいた中年男性が「プロって、何様の積もりなのですかね?」と囁いた。

海外の場合トレビノ、チチ達ベテランだけではない。レギュラーツアーの若手。彼らも負けてはいない。

長いこと私が、本拠地にして来たアリゾナでの、フェニックスOpen。此処は18番からハウス(選手のロッカーがある)迄、プロ達はロープで仕切られた、長く細い通路を歩く。そこで観客はサインを貰い、プロとの写メも可能。プロ達も心得たモノ。何も持たない観客には、その日使ったボール、手袋。さらにヘッドギアに迄サインをし、渡す。若い女の子など「これ、私の宝物」と狂喜する。

これが大衆の心を掴む、コツなのだ。

米国かぶれ、と言われるかも知れない。米が総てではない、との反論があることも、承知している。

だがこれだけの、客観的事実を比較すれば、結論は一目瞭然だ。

プロ競技は、ゴルフ界の宣伝機関。プロ競技の人気が高まれば、ゴルフ界全体が盛り上がる。そんな流れの中、日本では来年も脱落する、トーナメントがある。この秋も4日間で、観客が1万人を割る試合が続いた。

今や危急存亡の時。それだけに日本ツアーのプロ達も、サインを笑顔で、一声掛けて渡すといい。トレビノやチチの様に。繰り返すが選挙と同じ。声を掛けられた大衆は、心理的にそのプロに、好意を持つのだから。

(Nov.3rd.2014)