世界に名を馳せた鉄の女(Iron Lady)として知られるのは、マーガレット・サッチャー。伝統ある英国で、初の女性保守党党首。そして初の女性首相。そればかりか、1982年には、フォークランド島での、アルゼンチンとの戦争を受け、相手を降伏させている。鉄の女の面目躍如だった。
女性のスポーツ選手だから、政治家よりは愛嬌がある。それでもローラ・デイビイズには、かつての女宰相の姿が、オーバーラップする。最大の共通点。それは歴史を創ったことだ。
先週のミズノクラシック。51歳のベテランは、最終日を首位タイでスタートしている。
それより前、彼女には女王陛下から、Dameの称号が贈られている。これは男性のナイトに相当する名誉。例えばサー・ニック・ファルド同様、彼女の名前の前には、必ずこのDameが付けられる。
過ぎ去った約40年。世界の女子ゴルフを、大変革させた功労者が、2人いる。ナンシー・ロペスと、もう一人がこのローラだ。
前者は、それ迄マイナーの田舎芝居でしかなかった、女子プロゴルフ。そこに米三大ネットワークの、過激な取材競争を呼び込んだ。それに続いたローラ。彼女は欧州に女子プロゴルフの、爆発的な人気を植え付け、現在のワールドワイドな、成功に導く道筋を付けた。その功績だった。
ソルハイムカップは、その存在すら、日本では殆ど知られていない。1990年に産声を上げた、米欧の女子プロ対抗戦。言わば女性版ライダーカップ。兎角ここで脚光を浴びたのは、アニカ・ソレンスタム。それは年齢的な、偶然があった為だ。
2年に一度、個人と国の名誉を賭けた大一番。その名が示す通り立ち上げ、そして現在もスポンサーしているのは、人気メーカーPINGのオーナー家族ソルハイム・ファミリー。創業者は、アメリカン・ドリームを達成した、カーステン・ソルハイム。1990年秋。フロリダ州レイクノナで実現した、歴史的イベント。彼ソルハイムに、女性版ライダーカップの、アイディアを膨らまさせた、女子プロこそ誰あろう。ローラだったのだ。
英雄の登場は、何時の時代でも鮮烈だ。私がローラを初めて取材したのは、1987年の全米女子オープン。ローラ24歳の時。太めの178センチは、何と言うことなかったが、ふくらはぎの巨大さに度肝を抜かれる。むかし取材した横綱北の湖。彼でさえ裸足で逃げ出すのでは。そう思わせる程の太さだった。
この時は、3人によるプレーオフ。この体躯にものを言わせたローラは、パーシモンの3Wで、岡本のドライバーを、キャリーする。ジョアン・カーナーを交えた延長戦を、ローラはあっけらかんとして勝ち取る。続いて翌年スウェーデンのノイマンが勝つ。女子ゴルフで、長いこと続いていた、米の優位が静かに崩壊。その切っ掛けを作ったのは、紛れもなくローラだった。
ちなみにソルハイムカップ。90年を皮切りに、ローラは92、94、96、98、00、02、03、05、07、09、11年合計12度代表としてプレー。そのうち92年など4度、欧州にソルハイムカップを持ち帰っている。その間に挙げたポイントは25。出場回数の多さと共に、これは圧倒的な記録として輝いている。
それでも晩秋の、ミズノクラシック最終日。9人の4位タイの一人に終わる。史上最年長51歳での、ツアー21勝目(世界合計では88勝している)はならなかった。だが歴史を知るファンにとっては、うたかたとは言え、良い夢を見させて貰ったはず。
実績を必ずしも、その通り評価されることなかったローラ。いわゆる貧乏くじを引いたこれ迄。とは言え遅まきながら、世界ゴルフ殿堂入りも決定。来年7月にはセレモニーに出席する。
1996年のソルハイムカップは、英国の一部ウエールズで行われた。その時ローラは深紅のオープンカーで、会場入りした。女子プロでは破格の成功を、成し遂げた彼女の、デモンストレーションに、多くが拍手を送った。
1987年の全米女子オープン。そして幾度ものソルハイムカップ取材。加えて私には、もう一つ。ローラとの接点があった。シーズン最初のメジャー、ナビスコ選手権。その前哨戦と位置付けられた競技が、かつては3月末のStandard Register PING。舞台のムーンバレーCC(アリゾナ)は、長いこと私のホームコースの一つ。そこでローラは1994年から、4年連続優勝している。
彼女は全米女子オープン等、四大競技の他の3つは優勝している。そんな中ただ一つ届かなかったのが、ナビスコ選手権。その前哨戦で、4連破を達成しながら。これは巡り合わせの悪さ。それ以外何ものでもなかった。
最後に些細な事だが、実に大切な話を一つ。1987年秋。都内のホテルで、来日したローラの、全米女子オープン優勝祝勝会が行われた。スポンサーは、勿論用具契約をしていたマルマンゴルフの片山豊社長。その場を仕切ったのは、元NHKの有名アナンサー羽佐間正雄さん。冒頭彼が、次のように切り出した。
「皆さんに確認したいのですが、彼女の名前はデイビイズであって、デービースでは、ないんですよ」。
それより前1980年。全米オープン2位で、一躍名の売れた青木功。ただし長いこと、海外で彼は「アイセオ・エオキ」と発音されてきた。固有名詞を間違って呼ばれることは、当人にとって、嬉しくないこと。アナウンサーが本業の羽佐間さんは、その重要さをしっかり把握。パーティが始まる前に、主賓の名前に対する、正しい発音を、出席者全員に伝えた。素晴らしい気配りだった。
既に27年も昔のこと。この時の光景を、正確に憶えてはいない。だがDameローラ・デイビイズにとって、人生最高の一夜だったことは、想像するに難くない。
(Nov.10.2014)