9月は”King of Golf”アーノルド・パーマーの誕生月。1929年生まれは86歳。先週は米からスコットランド迄。祝福のメッセージが飛び交った。流石は御大。そんな中、いの一番に祝辞を送ったのが、半世紀に渡る、親友で宿敵でもあるニクラスだった。
私が本物のパーマーを、初めて観たのは1975年のマスターズ。本物の意味。それは米ツアー、または全英オープンの舞台で観ること。日本での彼らは、結局のところ花相撲でしかない。
この時のマスターズ3日目。最終組はパーマーとニクラスだった。35歳昇り竜ニクラスと46歳のパーマー。このあと最終日もニクラスが延ばす。この時まで、2人のマスターズ優勝はタイの四つ。その拮抗を、黄金熊が抜き去った時でもあった。
パーマーは取材者の私に取って、大きな年齢の開きがある。そのためニクラスのような、豊富な情報は得られなかった。
それでも「ゴルフを、地球全体に浸透させた功労者」「傘のマークのロゴを、ゴルフ場の外でも大ヒットさせた」「自家用ジェット機の操縦桿を、自ら握った」など、あらゆることを先駆して来た。まさにアメリカの夢の具現者。そんなことで一時は「パーマーを、大統領に」。そんな声も流布した。
オーガスタ・ナショナルGC敷地内には、大統領アイゼンハワーのコテージがあり、滞在中簡単な事務処理も出来た。その執務室も残されているほど。大統領を二期務めた後、アイクはパームスプリングスと共に、冬期オーガスタも好んだ。そのためパーマーも、多くの接点を持った。そこで政治家としての話が出る。2人とも国民的な人気者だけに、不思議はなかった。
私たちの世代で、王様と呼ばれた代表者は、パーマーと共にエルビス。1986年の全米シニアオープンは、オハイオ州コロンバスのサイオトCCが舞台。メジャー18勝、ニクラスの本拠地。木曜の午前、1番ティグラウンドに登場したパーマーに、大向こうから「King!」の掛け声。透かさず声の方向へ振り向き、笑顔で鷹揚に頷いて見せた。これはホーガンには、絶対できない芸当だった。
百歳の天寿を全うしたボブ・ホープ。その後パーマーは、ボブ・ホープクラシックの顔としての代役を果たしてきた。パーマーの本拠地オーランドからは、約5時間の飛行。6年前、彼は帰途操縦桿を握っている。とは言え、その年の誕生日。操縦免許の書き換えをしていない。
「もう充分だろう」との判断だったそうだ。私は叶わなかったが、仲間何人かが、最後のコックピット姿をカメラに収めた。撮る方も撮られる方も、感無量だったことは、言う迄もないことだった。
操縦桿は握らなくとも、飛行時間は相変わらず多い。この7月には大西洋を飛び、セントアンドルーズへも出掛けている。オールドコースでの全英オープン。そこで繰り広げられた、数々の儀式に出席する為だった。
パティ・シーハンは、日本贔屓の米女子プロ。父親ボボは、かつて冬季五輪で、米の監督を務めたほどの人。9月10日の誕生日は、パーマーと同日。そんなことで今回もシーハンは、パーマーとのカジュアルな、ツーショットを送ってきた。
ニクラスやトレビノたち、多くの有名プロと、私は親交を深めてきた。そんな中、パーマーだけは例外だった。一度来日中に単独インタビューもした。IMGの筆頭副社長の仲介で。それでも彼の私への印象。それは「アジアの坊や」から、抜けきられなかった。
ファンには誰にも優しさを貫く。一方で関係者にはシビアに査定する。それが人気商売の、クオリティを保つ上で不可欠なこと。本物の舞台で繰り返し取材をすることの大切さ。それを教えてくれたのも、パーマーだった。
生前インタビューしたバイロン・ネルソン翁。「アーノルドの登場がなければ、今日のような世界への、広がりはなかった」。
86歳の誕生祝いが、世界中で飛び交った。当たり前のことなのだ。
(Sep.14.2015)