Dameローラ。スポーツ界鉄の女。51歳21勝目を、一打差で逃す

 他の同世代が、既に女子のシニア、レジェンドツアー入りしているにも拘わらず、51歳で依然優勝を争えるローラ。かつて55歳でANA優勝を果たした、ジャンボ尾崎の活躍を彷彿させる。多くのファンに、夢と興奮を与えた一週間だった

他の同世代が、既に女子のシニア、レジェンドツアー入りしているにも拘わらず、51歳で依然優勝を争えるローラ。かつて55歳でANA優勝を果たした、ジャンボ尾崎の活躍を彷彿させる。多くのファンに、夢と興奮を与えた一週間だった

世界に名を馳せた鉄の女(Iron Lady)として知られるのは、マーガレット・サッチャー。伝統ある英国で、初の女性保守党党首。そして初の女性首相。そればかりか、1982年には、フォークランド島での、アルゼンチンとの戦争を受け、相手を降伏させている。鉄の女の面目躍如だった。

女性のスポーツ選手だから、政治家よりは愛嬌がある。それでもローラ・デイビイズには、かつての女宰相の姿が、オーバーラップする。最大の共通点。それは歴史を創ったことだ。

先週のミズノクラシック。51歳のベテランは、最終日を首位タイでスタートしている。

それより前、彼女には女王陛下から、Dameの称号が贈られている。これは男性のナイトに相当する名誉。例えばサー・ニック・ファルド同様、彼女の名前の前には、必ずこのDameが付けられる。

過ぎ去った約40年。世界の女子ゴルフを、大変革させた功労者が、2人いる。ナンシー・ロペスと、もう一人がこのローラだ。

前者は、それ迄マイナーの田舎芝居でしかなかった、女子プロゴルフ。そこに米三大ネットワークの、過激な取材競争を呼び込んだ。それに続いたローラ。彼女は欧州に女子プロゴルフの、爆発的な人気を植え付け、現在のワールドワイドな、成功に導く道筋を付けた。その功績だった。

ソルハイムカップは、その存在すら、日本では殆ど知られていない。1990年に産声を上げた、米欧の女子プロ対抗戦。言わば女性版ライダーカップ。兎角ここで脚光を浴びたのは、アニカ・ソレンスタム。それは年齢的な、偶然があった為だ。

2年に一度、個人と国の名誉を賭けた大一番。その名が示す通り立ち上げ、そして現在もスポンサーしているのは、人気メーカーPINGのオーナー家族ソルハイム・ファミリー。創業者は、アメリカン・ドリームを達成した、カーステン・ソルハイム。1990年秋。フロリダ州レイクノナで実現した、歴史的イベント。彼ソルハイムに、女性版ライダーカップの、アイディアを膨らまさせた、女子プロこそ誰あろう。ローラだったのだ。

英雄の登場は、何時の時代でも鮮烈だ。私がローラを初めて取材したのは、1987年の全米女子オープン。ローラ24歳の時。太めの178センチは、何と言うことなかったが、ふくらはぎの巨大さに度肝を抜かれる。むかし取材した横綱北の湖。彼でさえ裸足で逃げ出すのでは。そう思わせる程の太さだった。

この時は、3人によるプレーオフ。この体躯にものを言わせたローラは、パーシモンの3Wで、岡本のドライバーを、キャリーする。ジョアン・カーナーを交えた延長戦を、ローラはあっけらかんとして勝ち取る。続いて翌年スウェーデンのノイマンが勝つ。女子ゴルフで、長いこと続いていた、米の優位が静かに崩壊。その切っ掛けを作ったのは、紛れもなくローラだった。

ちなみにソルハイムカップ。90年を皮切りに、ローラは92、94、96、98、00、02、03、05、07、09、11年合計12度代表としてプレー。そのうち92年など4度、欧州にソルハイムカップを持ち帰っている。その間に挙げたポイントは25。出場回数の多さと共に、これは圧倒的な記録として輝いている。

それでも晩秋の、ミズノクラシック最終日。9人の4位タイの一人に終わる。史上最年長51歳での、ツアー21勝目(世界合計では88勝している)はならなかった。だが歴史を知るファンにとっては、うたかたとは言え、良い夢を見させて貰ったはず。

実績を必ずしも、その通り評価されることなかったローラ。いわゆる貧乏くじを引いたこれ迄。とは言え遅まきながら、世界ゴルフ殿堂入りも決定。来年7月にはセレモニーに出席する。

1996年のソルハイムカップは、英国の一部ウエールズで行われた。その時ローラは深紅のオープンカーで、会場入りした。女子プロでは破格の成功を、成し遂げた彼女の、デモンストレーションに、多くが拍手を送った。

1987年の全米女子オープン。そして幾度ものソルハイムカップ取材。加えて私には、もう一つ。ローラとの接点があった。シーズン最初のメジャー、ナビスコ選手権。その前哨戦と位置付けられた競技が、かつては3月末のStandard Register PING。舞台のムーンバレーCC(アリゾナ)は、長いこと私のホームコースの一つ。そこでローラは1994年から、4年連続優勝している。

彼女は全米女子オープン等、四大競技の他の3つは優勝している。そんな中ただ一つ届かなかったのが、ナビスコ選手権。その前哨戦で、4連破を達成しながら。これは巡り合わせの悪さ。それ以外何ものでもなかった。

最後に些細な事だが、実に大切な話を一つ。1987年秋。都内のホテルで、来日したローラの、全米女子オープン優勝祝勝会が行われた。スポンサーは、勿論用具契約をしていたマルマンゴルフの片山豊社長。その場を仕切ったのは、元NHKの有名アナンサー羽佐間正雄さん。冒頭彼が、次のように切り出した。

「皆さんに確認したいのですが、彼女の名前はデイビイズであって、デービースでは、ないんですよ」。

それより前1980年。全米オープン2位で、一躍名の売れた青木功。ただし長いこと、海外で彼は「アイセオ・エオキ」と発音されてきた。固有名詞を間違って呼ばれることは、当人にとって、嬉しくないこと。アナウンサーが本業の羽佐間さんは、その重要さをしっかり把握。パーティが始まる前に、主賓の名前に対する、正しい発音を、出席者全員に伝えた。素晴らしい気配りだった。

既に27年も昔のこと。この時の光景を、正確に憶えてはいない。だがDameローラ・デイビイズにとって、人生最高の一夜だったことは、想像するに難くない。

(Nov.10.2014)

過去50年。トレビノとチチは、連日百人にサインをしてきた

脱帽し、敬意を表してニクラスに挨拶する、今季メジャー2勝のマキロイ。場所はライダーカップの、グレンイーグルス。相手の目を見て、話すことの大切さ。そこに相互信頼が生まれる

脱帽し、敬意を表してニクラスに挨拶する、今季メジャー2勝のマキロイ。場所はライダーカップの、グレンイーグルス。相手の目を見て、話すことの大切さ。そこに相互信頼が生まれる

65歳以上の3千万の一人に、なった今では困難なこと。だが髪が未だ黒かった頃。トーナメントで、何度もキャディを体験した。

最初は金髪のスウェーデン娘、ピア・ニルソン。加州サンノゼでの、1983年最終戦。翌年にはリー・トレビノ。さらにチチ・ロドリゲス、ゲイリー・プレーヤーと続いた。選んだ条件は、世界的なプロで、背格好が似ていること。

その中でも、トレビノとチチの、大衆性は圧倒的。ラウンドが終わると、連日80人から百人の、観客が列をなす。サインを貰うため。その間ズッと立ち続け、と言う訳には行かない。乗用カートに座り、出されるプログラムや色紙に、次々サイン。渡す時、相手の目を見て一声掛ける。

相手が子供なら「宿題は、積極的に遣っているな?」「親の言うことを、よく聞けよ」など。また女性ファンは、殆どが手を伸ばし、握手を求める。

朝の練習場。前列に子供の姿を見付けると、チチは直ぐさま「ボール、打ちたいか?」と声を掛け、ロープの内側へ招き入れる。当人と家族ばかりか、他の観客も即座にチチに好意を持つ。トレビノにしても同じこと。それにしても毎日80人も百人も。大変なエネルギーだと思うが、彼らは平気だ。

1984年、全米プロで6個目の、メジャータイトルを獲得した、2ヶ月後のトーナメントで、トレビノのキャデイをした筆者。ニクラス同様、私が最も多くの、教えを受けた先輩がトレビノ。彼は目の前に客が、一人でも居る間は、笑顔を振りまき、トコトン喋り続けた。ただしサービス出来るエネルギーには限度がある。そんなことで彼は、ホテルの自室に消える時間も早かった。

1984年、全米プロで6個目の、メジャータイトルを獲得した、2ヶ月後のトーナメントで、トレビノのキャデイをした筆者。ニクラス同様、私が最も多くの、教えを受けた先輩がトレビノ。彼は目の前に客が、一人でも居る間は、笑顔を振りまき、トコトン喋り続けた。ただしサービス出来るエネルギーには限度がある。そんなことで彼は、ホテルの自室に消える時間も早かった。

米のゴルフには、かつてのジョーンズ。そしてホーガン、パーマー、ニクラス達。圧倒的な主役。それを個性豊かな脇役が、支えてきた。その代表がトレビノであり、チチだった。2人の名前が出ると、速射砲の如く喋るトレビノ。そしてバーディパットの後。パターを剣に見立て、相手を突き刺す演技のチチ。兎角これらが強調されがち。とんでもない。彼ら2人で観客に与えたサインの数。それは天文学的数字。それはそのまま、開拓してきたファンの数でもあるのだ。

欧米ツアー勢。彼らを目の当たりにすると、日本人プロの社会への、参加意識の低さに驚く。

十月末のブリヂストンOpen。最終日。終盤の組が終了すると、ハウス前に長い列ができる。ところが此処に、コミュニケーションがない。サインするプロは、笑顔を作るでなし。ましてやトレビノ、チチのように、声を掛けることもしない。

「何と勿体ないこと。コースまで来た客の心を掴む、絶好の機会を逃している」。それが私の素直な印象だった。

この時、男子ツアーは同じ千葉県で、2週続いた。それも理由の一つで、ブリヂストンOpen最終日は、不入りだった。最大の原因は「観たいプロが、殆どいない」(観客の声)。

昔のジャンボ尾崎や、数年前の遼の様な、人気者は滅多に、生まれるモノではない。そんな冬の時代こそ、小さい努力の積み重ねが必要。その一つの手法が、サイン時の、ファンへの声掛けなのだ。

前出のトレビノやチチ。彼らが開拓した、ファンの数は、途方もない数字。追い付くことは困難。だが参考にはなる。その一つが、サインを渡す時の、笑顔と一言。

これは選挙と同じ。声を掛けられ、握手をすれば、人間の心理として、相手に好意を持つ。ゴルフの場合、それが翌年の来場に、結び付く。

簡単なロジック。そんなことも分からず、袖ヶ浦CCで目撃した、日本ツアーのプロ達は、長蛇の列を作った観客に、笑顔も声も、殆ど与えていなかった。それより何より、鉄柵での仕切りは、冷酷過ぎないか。

私の近くにいた中年男性が「プロって、何様の積もりなのですかね?」と囁いた。

海外の場合トレビノ、チチ達ベテランだけではない。レギュラーツアーの若手。彼らも負けてはいない。

長いこと私が、本拠地にして来たアリゾナでの、フェニックスOpen。此処は18番からハウス(選手のロッカーがある)迄、プロ達はロープで仕切られた、長く細い通路を歩く。そこで観客はサインを貰い、プロとの写メも可能。プロ達も心得たモノ。何も持たない観客には、その日使ったボール、手袋。さらにヘッドギアに迄サインをし、渡す。若い女の子など「これ、私の宝物」と狂喜する。

これが大衆の心を掴む、コツなのだ。

米国かぶれ、と言われるかも知れない。米が総てではない、との反論があることも、承知している。

だがこれだけの、客観的事実を比較すれば、結論は一目瞭然だ。

プロ競技は、ゴルフ界の宣伝機関。プロ競技の人気が高まれば、ゴルフ界全体が盛り上がる。そんな流れの中、日本では来年も脱落する、トーナメントがある。この秋も4日間で、観客が1万人を割る試合が続いた。

今や危急存亡の時。それだけに日本ツアーのプロ達も、サインを笑顔で、一声掛けて渡すといい。トレビノやチチの様に。繰り返すが選挙と同じ。声を掛けられた大衆は、心理的にそのプロに、好意を持つのだから。

(Nov.3rd.2014)

スーパーボウル優勝と、全米オープンの舞台シアトル

 今年は男女の全米オープンを、同一コースで連続開催したUSGA。来年はスーパーボウルとの、組み合わせで,数十万の観客を集めるべく、仕掛けている。ゴルフ界だけの発想から、抜け出せない日本とは,大きな違いだ(photo courtesy of USGA)

今年は男女の全米オープンを、同一コースで連続開催したUSGA。来年はスーパーボウルとの、組み合わせで,数十万の観客を集めるべく、仕掛けている。ゴルフ界だけの発想から、抜け出せない日本とは,大きな違いだ(photo courtesy of USGA)

日本人に対し、シアトルを有名にしたのは、言わずもがなイチロー。

カナダ国境に近い、北国の港町。ここではイチローが所属した、マリーンズ。そしてNFLのシーホークスが、スポーツ好きの住民を、楽しませている。

チーム名マリーンズは、船乗りにあやかったモノ。所属はアリーグ西地区。今季は87勝75敗で、地区3位。一方のシーホークスは、初のスーパーボウル優勝を、今年達成している。都市全体としての、スポーツ熱は高い。

北太平洋が、瀬戸として大きく切れ込んだ地形。そこに2つの町が共存している。シアトルともう一つは、南に位置するタコマ。来年の全米オープン会場は、チェンバーズ湾ユニバーシティプレースの公営コース。それも開場して、未だ間のない新設。そのコースは、タコマの南に位置し、有名な活火山レイ二ア山が遠望できる。ここで来年6月予定されている全米オープン。それは多くの意味で、新しい実験の場になる。

ワシントン、オレゴン両州は、一般的に「北西太平洋地区」と呼ばれる。

米でゴルフが大衆化してきた中心地。それはフロリダ、ハワイ、加州、そしてアリゾナなど。南に位置する、サンベルト地帯中心。気候的な理由もあり、北西太平洋地区は遅れた。1895年から続く全米オープン。それが来年初めて、この地区で開催される。

それだけではない。入り江に面した、このゴルフ場は、かつて百年以上も続いた、砂利の採掘場だった。ただし土地は平坦。そこへ名手トレント・ジョーンズJr.の手で、スコットランドの、リンクスを彷彿させる、素晴らしいチャンピオンシップ・コースが誕生した。言わば廃物利用された土地。これが大きな特徴。

英国ばかりか、米国もゴルフ場は公園である。従ってこの新設コースも公園の一部。そこでの売りは「スーパーボウル王者の町で開催される、ゴルフの全米オープン」。それを一言で表す写真がこれ。「スーパーボウルと、全米オープン2つのトロフィー」である。

アリゾナの記者仲間で、ラジオのパーソナリティでもある、旧知ビル・ホフマン。彼も「この偶然は滅多に起きない」と、期待を大きくする。

それにしてもトレント・ジョーンズJr.は、秀逸な仕事をした。海外の場合、設計的に優れれば評判をとり、ゴルフ場は賑わう。市当局の話だと「開場以来予定を上回る、一般入場者が続いている」。

全米オープンの前売りは、一年前に売り出す。例に漏れず今回も、7月には発売を開始している。

市当局の全米オープン担当者に拠ると「好調に捌けています。29年連続の切符完売は、まず間違いありません」と、胸を張り、目を細める。ちなみに28年連続完売となった、今年のパインハーストNo.2コース。この時は男女の全米オープンを、同じ舞台で2週連続開催した。その結果の入場者数は「併せて約34万人。そのうち男子のオープンは30万人」(USGA)。今年の日本オープンが「よく入った」と言われて2万9142人。単純計算でその十倍に達する。

ゴルフもフットボールも、ショービジネス。観客が溢れれば、会場全体が熱狂。さらにテレビを通して,興奮が全世界に伝わる。観客の増加は、そのままマーチャンダイズ(土産品)の売り上げに繋がる。同時に大会期間中の宿泊、航空機、地域内のレストランビジネス。またこの辺り、古い上質のコースも多く、それらが遠来の客で賑わう。

日本のゴルフ観戦は日帰り。一方国土の大きな米は、数泊する。そして観戦だけでなく、その期間に自分でも、ゴルフをし、仲間と食事を楽しむ。そんなことで地元に、大きなカネが落ちる。全米オープンは、経済効果も大きいのだ。

日本のテレビを、私は積極的には見ない。それにしても、この手の話。全米オープン期間中に、日本のテレビが、何処まで伝えるか。

コースのヤーデージ。パー4は軒並み5百ヤード前後。期日は6月18日第一ラウンド。最終21日は、例年通り、父の日になる。

1895年の第一回以来、USGA(米国ゴルフ協会)が固執して来た、古い伝統あるクラブでの開催。タイガーの出現もあって、それが公営コースに移ったのが、2002年ベスページ。それでもベスページは、古い歴史を持つ、ティリングハストの作品。百数十年の歴史があった。その歴史が来年、さらに新しい方向へ向かう。それは廃物利用された砂利採掘場。そこに新設された公営コースでの開催。これがゴルフ界の、最前線を走る、全米オープンのビジネスなのである。

説明する迄もなく、シアトルタコマ国際空港へは、日本からノンストップ。優勝争いの予想は先のこと。日本のゴルフ好きには、有利に熱狂に加われる、全米オープンになることは、間違いない。

(Oct.27.2014)

全英オープンの顔交代。ピーター・ドウソンの16年

在任中、数々の新しい仕掛けを、成功させてきたドウソン。彼のリーダーシップで、今年の全英オープンは、観客数も21万人を超えるなど、大成功だった

在任中、数々の新しい仕掛けを、成功させてきたドウソン。彼のリーダーシップで、今年の全英オープンは、観客数も21万人を超えるなど、大成功だった

昨日終わった日本オープン(会場は千葉CC梅郷)。これらの会場選定を巡る利益誘導疑惑。それを私は、週刊新潮で、素っ破ぬいた。07年連休のことだった。

日本ゴルフ界の、薄汚いスキャンダル。それはそのまま、世界に知らせる必要。全4頁の記事の英訳は、結構長いものになった。それをニューヨークタイムズなど、英米のマスコミや記者仲間。ニクラスやジョニー・ミラーたち、影響力を持つベテラン。そして当然ながら、USGAとR&Aにも送った。当時USGAの専務理事は、デビッド・フェイ。彼らの中で、いの一番に返事のメールを、送って寄越したのは、R&Aの専務理事、ピーター・ドウソンだった。

彼は基本的に、他人を直接批判することはしない。彼は次のように、自説を書いてきた。

「ゴルフの世界は、その様な誘惑が強い環境。一人々々が注意する必要がある」と。

そのドウソンが、来夏の終わりに、代表権を持つ16年の専務理事職から、引退する。来年の全英オープンは、オールドコース。そこはトム・ワトソンの、最後の舞台になることも、決まっている。ドウソンもその時、同じように表舞台から降りる。

全英オープンの顔として、責任を負って来た、彼の16年が終わる。その間の数々の業績。その中でも特筆されるのは、数百年のゴルフ史の流れ。それを大きく近代化させたことだった。

ゴルフを五輪種目に、復帰させたこと。さらには260年続いた、男だけのクラブR&Aに、女性を加えるなど、ゴルフを、時代に合わせて、改革改良させた。これらは彼にとって幸運だったが、一方でドウソンだったからこそ、達成できた、高い目標でもあった。

08年のIOC総会は、夏の終わり。デンマークのコペンハーゲンで、行われている。1904年のセントルイス以来、112年ぶりで、ゴルフの五輪復帰が決まった時だ。この時競技者として、プレゼンターは、当時メジャーの主役だった、アイルランドのハリントンと、冬季五輪王国、ノルウエイが生んだ、女子メジャー勝者、スサン・ペッテルソン。そして未だ十代。ゴルフの未来の夢を語れる年齢の、ミッシェル・ウイ。4人目はその年16歳で、全英アマチュア選手権で優勝した、イタリアのマッテオ・マナッセロ。その同じ壇上で、全体を締めたのが、米ツアーのNo.2タイ・ボウトウと共に、ドウソン。彼らは国際ゴルフ連盟(IGF)の、会長と副会長でもあった。

この作業。当然のことながら、IOC総会の、何年も前から計画され、根回しされて来た。その時点から、フロリダ州ポンテべドラ(米ツアーのHQ)のボウトウと、綿密な具体策を練ってきたのが、ドウソンだった。

2016年のリオ。ゴルフの舞台は、コース造成の段階で、早くも複数のトラブルに直面している。とは言え、次の五輪2大会で、ゴルフが正式種目になる。この事実は大きなインパクトだ。

そのドウソン。最近では2010年秋。来日している。この年うぶ声を上げた、アジアアマチュア選手権。それを指揮するためだった。その秋ジャンボ尾崎の、世界ゴルフ殿堂入り発表があった。忙しい時間を縫い、ドウソンはその席にも、姿を現している。全英オープンの責任者は、世界のゴルフの、顔でもあるのだ。

世界を知るビジネスマンが、来秋以降R&Aを牽引する

世界を知るビジネスマンが、来秋以降R&Aを牽引する

そのドウソンの、後継者に決まったのは、54歳の英国人。マーチン・スランバース。バーミンガム大等、複数の大学で、機械工学と経済学の学士号を取得。卒業後はサロモン兄弟社の、ロンドン、香港に勤務。アジアと欧州の、財務責任者。その後ドイツ銀行にヘッドハントされた、国際派ビジネスマン。

来年3月、R&Aに加入。それからドウソンが引退する迄の、約半年オーバーラップさせて仕事をする。そして2015年10月1日、R&Aの次の専務理事として、本格的活動を開始することになる。

言う迄もなく、日本のゴルフ協会JGAは、R&Aの傘下。来年以降は、そんなことで新専務理事の、影響を受けることになる。

(Oct.20.2014)

 

帝王74歳日本滞在22時間。自家用ジェット機。世界を飛び回る

バギーは自分で運転する。そして必要な場所で頻繁に停止。担当スタッフに次々指示を出す。この時のニクラスは、かつて競技をしていた時と、同様の厳しい表情になる

バギーは自分で運転する。そして必要な場所で頻繁に停止。担当スタッフに次々指示を出す。この時のニクラスは、かつて競技をしていた時と、同様の厳しい表情になる

Flying Golden Bear(空駆ける黄金熊)。メジャー18勝の、帝王ジャック・ニクラス。彼は74歳の今も、世界を飛び回っている。いま彼のビジネスは、ゴルフのプレーではない。ゴルフ場の設計。その数、既に世界38カ国で391。地球上の総ゴルフ場は約3万2千。その中に占める、これだけの数。それをニクラスが手掛けたことになる。その受注は、世界中からどんどん続く。それをこなす。そのためには地球を、飛び回らなければならない。

その強行日程を可能にするのが、自家用ジェット機。70億円はするガルフストリーム「Air Bear」。ニクラスのニックネームは、黄金熊Golden Bear。そこから名付けたモノ。

ちなみに、9月末からの約2週間。この間に動いた旅程。まず自宅のある米フロリダを出発。最初の目的地は、ライダーカップの舞台、スコットランド。そこでは昼も夜も引っ張りだこ。公式の午餐や晩餐。それらの席での写真撮影。その中には、007のショーン・コネリー。元F1世界王者ジャッキー・スチュアート達、代表的なスコットランド人。終了を待って、次トルクメニスタン。ここも原油のお陰で、ゴルフ場が必要になった。

続いてアフリカのモロッコ。そこから米のフロリダ。この時は同州内の事務所にも立ち寄らず。そのまま中国の北京。そして最後が日本。成田へ降り立った8日夜。ニクラスからの、短いメールが届いたのは、午後8時16分だった。

「いま、東京に着いた」。
「ナニ、予告もナシに?」。
「明日朝から、造成地をチェック。午後2時過ぎ迄は、千葉に居る」。
「判った。あす間違いなく行く」。

いま彼が日本で、手掛けている新設は、千葉市郊外の東京クラシック。

その連絡は、早くから届いていた。だが当初の登記は別の名称。そのため住所がハッキリしない。確認できたのは、翌朝8時。それを待って出駆けたことで、到着は丁度昼時。

ティグラウンド上。青写真に、自ら要点を書き込むニクラス。ゴルフ場は手作り、であることを教えられる。

ティグラウンド上。青写真に、自ら要点を書き込むニクラス。ゴルフ場は手作り、であることを教えられる。

事務所で30分ほど、取材も含めた雑談。22人の孫を中心に、家族の話。彼がホストを務め、今年は松山英樹が優勝した、米ツアー、メモリアル・トーナメントのこと。さらにはニクラスの設計したコースでの、日本オープン開催の可能性。そして2020年東京五輪に迄、話が延びる盛り上がりだった。

その後2台のバギー車に分乗。造成中の18ホールの、再度のチェックを、次々こなして行く。昔と変わらない。また地球を一周半し、十数時間前、成田に着いたばかり、とは思えない、精力的な動き。各ホール、ティグラウンド、そしてフェアウエイのIPから、次々指示を出す。

私は2台目のバギーで、広報担当筆頭副社長の、スコット・トーリイと、写真を撮りメモを続ける。スタッフに指示を与える、帝王ニクラス。彼の一言半句が、物書きの私には、宝物になる。

ニクラスにとっては、大好きな日本。心を許せる国。午後の約2時間も、充分満足行く表情で、この日の仕事を終えている。

ハワイのホクリア(ハワイ島)や、アリゾナのスコッツデール等。世界のあちこちで、造成現場での、ニクラスを取材して来た。そこで見えるモノ。それは「ゴルフ場は、一度完成させれば、それは半永久的なモノ」。だから設計のセオリーは変化(進歩)しても「自然に溶け込ませた、丁寧な造り」は、終始一貫している。そこで彼は絶対に妥協しない。

さらに際立つのは恵まれた用地。これだけのモノ、日本では滅多に見られるモノではない。その素材にグリーンばかりか、フェアウエイ全体の、おおらかで絶妙なうねり(アンデュレーション)を加えた。日本の場合フェアウエイは平坦。左右のラフに、小さいマウンドを造る。そんな勘違いが多かった。ニクラスの基本は、スコットランドの、ミュアフィールドGCに通じる、ゴルフ本来のフェアウエイのうねり、なのだ。極言すればゴルフは、アンデュレーションのゲームなのだから。

これがニクラスの、地球駆け巡りを可能にする、自家用ジェット機Air Bear

これがニクラスの、地球駆け巡りを可能にする、自家用ジェット機Air Bear

ニクラスの全英オープン優勝は3度。そのうちの2度がオールドコース(セントアンドルーズ)でのモノ。その前初めて、クラレットジャグ(優勝トロフィー)を抱いたのは1966年。ミュアフィールドGCだった。ここの正式名称はHonourable Company of Edinburgh Golfers。その歴史はゴルフの総本山R&Aより古く長い。

JackPlanePlans06_JM19「若い頃から、私の弾道は高かった。風の強いスコットランド。あれでは勝てない。英国の新聞は批判的だった。それだけに、私にとって、生涯最も嬉しい優勝になった」。

1976年から続く、米ツアー、メモリアル・トーナメント。その舞台はニクラスの郷里オハイオ州の、ミュアフィールド・ビレッジGC。それはニクラスが、全英オープン初優勝を飾ったコースから、借用した尊い名称なのだ。

ニクラスとの仕事で、感心させられる、もう一つのこと。それは造成地で一緒に過ごしたスタッフ。彼ら一人々々への仕事後の労い。それを忘れないこと。今回も工事担当者から、若い女性カメラマンまで。全員に声を掛け握手している。それが彼の場合、ごく自然に出て来る。

ゴルフ界の帝王として、常に王道を歩んで来た、男ならではの所作。これでは、世界中から、設計の注文が殺到して、当然なのだ。

なおニクラス設計のコース。日本ではこれ迄26。この東京クラシック(千葉市若葉区)は来春には竣工。そして2015年秋。ニクラスが再来日して、開場式が行われる、と言う。

(Oct.13.2014)

五輪競泳の主役、ゴルフに転じることの困難さ

「22」が光る、フェルプスのアイアンとバッグ。トップメーカーPINGも、水の怪物の新しいチャレンジを、全面的にサポートしている

「22」が光る、フェルプスのアイアンとバッグ。トップメーカーPINGも、水の怪物の新しいチャレンジを、全面的にサポートしている

五輪でのメダル22箇。そのうちの18箇が金メダル。マイケル・フェルプスの名前は、未だ多くが記憶している。

ちなみに2年前のロンドン。その前08年の北京で、競泳プールの脚光を独り占めした。五輪のヒーローは、名声だけでなく、大きな収入にも結び付く。日本でもそれを証明したのが、同じ水泳の北島康介。フェルプスの場合、その北島より遙かに、スケールの大きい、世界的な主役。ニックネームも、水の怪物。その五輪メダル22箇が選んだ、第二のスポーツ。それがゴルフだった。

193センチの長身と、長い腕。それを生かして、ミシガン大時代から、ゴルフも結構上手かった。五輪後の2012年秋。抜群の知名度を生かし、早速米のケーブル局が、シリーズ番組を開始する。狙いは五輪ヒーローが(あわよくば、プロになる迄の成長過程)。

平行して、セレブとして、プロアマへの出場も開始する。デビューは2013年1月末。フェニックスオープン。そのタイミングで、用具の契約も結ぶ。一級のメーカーPINGと。バッグにもアイアンにも、22の数字が刻み縫い込まれる。五輪の知名度は、追い風をどんどん強くする。テレビの評判も悪くない。

それを受け撮影で、スコットランドへ行く。処がここで、最初の挫折を、味わうことになる。スコットランドには、一日に四季がある、と言われる。それ程急変する天候、それへの、対応の難しさ。さらに膝まで隠れるような、深いラフ。ボールを打つことの楽しさより、ボール探しの忍耐が、求められる。米では体験できないコース。我慢しきれず、フェルプスは、手にしたクラブを、何度も放り投げる。

それを地元スコットランドのメディアが、記事として報じた。ゴルフで、2つ目の世界に乗り出すことの、困難さを、見せ付けられた時だった。

実は競泳とゴルフは、対極にあるスポーツなのだ。

競泳は、持てるパワーを全開し、必要な距離を泳ぎ切る。だから十代から二十歳そこそこ迄の、年齢が中心になる。国際規格があるから、プールのコンディションは、何処もほぼ同じ。

一方のゴルフは、まず4時間のマラソン。異なるコース。そこではボールを打つ技術。それ以上に、心を制御すること(セルフコントロール)と、コースマネジメントが、大きな鍵を握る。さらにゴルフでは、繊細な動きが随所に求められる。五輪で22箇のメダリストも、どうやらその壁が、突破できていないようなのだ。

そのフェルプスの名前が、最近久々に米の新聞テレビを賑わした。それはスピード違反と、酒気帯び運転で逮捕されたこと。米からの情報に拠ると、「最近水泳競技に復帰したが、ここでも結果が出ず。ストレスが溜まっていたはず」。恐らくゴルフが上手く行かず。それで昔のプールに戻った。だがピークを過ぎた、かつてのヒーローが、相手にされる世界ではなかった。

それにしても最近、競泳選手の話題が続く。一つは、豪州のイアン・ソープ。フェルプスの前、水の超人と呼ばれた196センチ。彼はこの夏、同性愛者であったこと。さらに鬱病と戦っていたことも、豪州のテレビで、告白している。引退後彼はズッと、悩み苦しんでいたことが判る。

さらに今回のアジア大会。ここでは日本の代表選手が、あろう事か、報道陣の80万円もする、カメラを窃盗。即刻チームから追放されている。それぞれに、直接的な関連はないのだろうが、それにしても、若くしてヒーローになる。また長い年月、水泳一筋の生活をする。それらの或る種反動なのかも知れない。

だが、第二のスポーツに転じることが、総て失敗に結び付くか、と言えば、それは違う。大きな成功者は、私たちの身近にいる。それはプロとして、113回の優勝を、重ねたジャンボ尾崎だ。彼は徳島海南高時代、1964年のセンバツで優勝。その後当時の、西鉄ライオンズに入団。だが見切りを付け、数年で退団。71年には日本プロ選手権で、プロ初優勝を飾っている。

その尾﨑が、次のように述懐する。
「要するに切り換えるタイミング。その時、先が見えるか否か。オレの場合は、さらに若い年齢で決断したこと」。

自分の能力が、何処にあるか。自分の適所探し。それに対する的確な読みがあった。尾﨑の成功は、そこに在る。尾﨑の活躍に刺激され、その後多くの高校球児、そしてプロ野球経験者も、プロを目指し、ゴルフに転じている。巨人のエースだった、西本崇もその一人。だが成功していない。

だから、戯れに第二のスポーツに、ゴルフを選ぶのでなく、ゴルフは九十数パーセントの人にとって、週末のレクレーション。その位置に留める。そのことが、より大切になる。

関連したゴルフの、もう一つの効能。それは言わずもがなリハビリ。日本では大衆化するに至っていない。だが北米や、英豪等では盲人のゴルフが、市民権を得て久しい。これらの国々では、戦争で視力を失った市民も多い。彼らの社会復帰の、一つの道具。それがゴルフ。環境さえ整えば、目が見えなくてもゴルフは出来る。私も彼らのゴルフを、何度も取材し、その都度驚かされて来た。

フェルプスのスピード違反は、今回が二度目。前回は保護観察処分だったが、二度目は当然厳しくなる。このピンチを乗り切る。そのためには、リハビリの道具と受け止め、ゴルフを楽しむ。頭の切り替え時、であることは間違いない。

(Oct.06.2014)

米ツアー、この一年最も難度の高かったのは、全米オープン会場

 夏6月、三十万余の観客が熱狂した、パインハーストNo.2コース。秋風に頬を撫でられながら、いま多くの腕自慢が、最もタフなコースでのラウンドを、満喫している(USGA photo)

夏6月、三十万余の観客が熱狂した、パインハーストNo.2コース。秋風に頬を撫でられながら、いま多くの腕自慢が、最もタフなコースでのラウンドを、満喫している(USGA photo)

贔屓で言うのではない。だが米ツアーの仕事は、実に手際良い。何事も消費者が「欲しい」と思った時には、品物が出て来る。その一つが、この一年(2013年から2014年)の、難度の高いコース10傑。最終のツアー選手権は、30人(実質的には29人)。それが始まった週、この数字が出てきている。

それは単に、プロ達の話題ではない。ツアーの開催コースは、一般ゴルファーにとっても、憧れの場所。そこで世界をリードする、米ツアーのトッププロが、どの様な結果を出しているか。それは全米1万7千ゴルフ場。そこで遊ぶアマチュアが、直接間接関連するデータ。何しろ欧米には「あわよくば、プロを負かしてやろう」との野心満々のゴルファーは少なくないのだから。
そんな環境の中、トップ10が次のように発表された。それは設定されたパーに対する、プロ達のスコアの平均。

一位、パインハーストNo.2コース。パーに対しての平均、3.076オーバー。
二位。オーガスタ・ナショナルGC。1.946オーバー。
三位。トランプ・ナショナル・ドラール(ブルー)。1.852。
四位。トーリーパインズ南。1.797。
五位。コングレッショナル(ブルー)。1.546。
六位。イニスブルック。1.433。
七位。ペブルビーチ。1.384。
八位。TPCサンアントニオ。1.286。
九位。ハーバータウンGL。1.038。
十位。ロイヤル・リバプール。0.767。

繰り返すが、これらの数字は、何れもオーバーパーである。その中で、意外な結果の一つ。それは全英オープン会場、ホイレーク(ロイヤル・リバプール)が、10位だったこと。これには言い訳がある。

全英オープンと言えば、冷たい風と、横殴りの雨。それが一般的な印象。だが地球温暖化の所為もあり、今年の第一ラウンド。それは殆ど南加州の様な、好天と暖かさだった。風が吹かなければ、全英オープンの象徴、ポットバンカーも恐くない。その結果、第一ラウンド。大きなアンダーが続出。日本人プロも、その多くが上位に顔を出した。尤も最終的には、勝者マキロイも、傘を差してのプレーになるのだが。何れにしろ木曜日の好天が理由で、難コースのランクで、10位に留まった。

2位のオーガスタ・ナショナル以下は、パーに対するオーバーが、1台。ちなみにオーガスタの場合、1.946。それを大きく引き離したのが、ノースカロライナ州のパインハーストNo.2コース。説明する迄もなく、6月の全米オープンの舞台だ。

今年の全米オープンを前に、コースは大々的に改造された。担当したのは、クレンショウ、ビル・クーアの、売れっ子コンビ。彼らの得意の一つは、フェアウエイの左右に、砂地を多く設けること。加えて今回は、その砂地に地元の雑草(針金のように強靱なワイアグラス)を、植樹した。これは随所で、スコアメークを、困難にした。その結果、72ホールでのアンダーパーは、僅か3人。優勝したカイマー(9アンダー)。そして2位の二人(コンプトンとファウラー)が1アンダーだった。

メジャー競技の優勝者は、歴史に名前が残る。特に勝ってからの一年。何処へ出ても「Our National Open Winner」と、紹介される。スポーツヒーローでも、そこ迄尊敬の対象になる彼ら。その様な歴史があるだけに、メジャー競技の会場。そして並み居る世界の強豪でさえ、3人しかアンダーを出せなかった。その様なコースへは、多くの腕自慢が、挑戦することになる。

秋のいま、ノースカロライナは、ゴルフシーズン真っ盛り。料金もNo.2コース(全体で8コース在る)は450ドルと高額。それでも全米オープンの余韻が残る中。多くの一般ゴルファーが、ラウンドを楽しんでいる。プライベートクラブの、オーガスタ(2位)は、大衆には手が出ない。だが全米オープンのパインハーストは、問題なくティタイムが取れる。

トップ10の中。ドラール、トーリーパインズ、ペブルビーチ、ハーバータウンも、同様パブリックに、オープンしている。従って多くのアマチュアが、ここでもプロのスコアに、挑むことが可能になる。これは大衆ゴルファーを、刺激し上達させる上で、何よりの切っ掛けになる。

その中、取りわけハーバータウン。ここは18番グリーン奥の、灯台がLandmark。要するに海に面した、湿地帯に造られたコース。だから時折、とんでもない低気圧が通過する。そんな日は、プロでもパーを維持することが、精一杯になる。

それらの情報が、シーズン終了と同時に、公開される。この迅速さと豊かなバラエティ。私たち、ゴルフ好きの消費者には、実に有り難いデータなのだ。

(Sep.29.2014)

男だけの世界だった260年。R&A女性会員受け入れ

R&Aのドウソン専務理事。今回の時代の変化。そのリーダーシップを取ったのが彼。その前112年ぶりの、ゴルフ五輪復帰を実現させたのも、彼の働きだった(both photos courtesy of R&A)

R&Aのドウソン専務理事。今回の時代の変化。そのリーダーシップを取ったのが彼。その前112年ぶりの、ゴルフ五輪復帰を実現させたのも、彼の働きだった(both photos courtesy of R&A)

歴史が変わる時とは、常に劇的だ。

9月18日(日本時間19日)英国で、2つの投票結果が、発表された。

一つはスコットランドの、英国からの独立に関する住民投票。これは、反対が55%を越えた。欧州産原油の60%を産出するのが、スコットランドの海底。更に世界の飲み助が愛飲する、スコッチウイスキー。それより何より、ゴルフ好きにとっての関心事。それはゴルフの全英オープン。遠く1860年プレストウイックで、産声を上げて以来、その多くが開催されてきたのは、スコットランド。そのスコットランドが、英国と分離するとしたら、厄介なことになる。

同じ18日。ゴルフの総本山、R&A(ロイヤル&エンシェント・ゴルフクラブ・セントアンドルーズ)では、260年目にしての、新しい試みが行われていた。それはクラブとしてのR&Aに、女性の会員を迎えるか否か。その選択だった。

そもそもゴルフクラブとは、男達だけのモノ。うるさい女房(失礼)から逃れ、男同士球を打ち酒を飲む場所。1975年初めて訪れたセントアンドルーズ。午後オールドコースでラウンドするのだが、その前。町で写真店を営む知人イアン・ジョイが、連れて行ってくれた先は、彼らのクラブだった。R&Aのクラブとは違う、センとアンドルーズ市内のビルの一階。私が連れて行かれ理由は、スタート前に昼食を摂るため。

ところが正午前だと言うのに、そこでは多くのメンバーが、スコッチやラガーグラス片手に、盛り上がっていた。西欧のクラブに関し、知識の浅かった私は「何だ、この人達は。午前中からアルコールを遣って?」。世界あちこちで、クラブの会員になった今では、当たり前のことと受け止められる。それにしても駆け出し記者には、驚きだった。ただし彼らはR&Aの会員である必要はない。

ゴルフが好き。だが度々出掛けることで、奥さんに遠慮がある。そう言う連中が、憂さ晴らしをする。言わば同好の士の集合場所。だからMembers Only。またはMen Only。たわいもないことなのだ。

それより何より日本でも、明治時代の政治で、女性に選挙権がなかった。それが歴史の中での、男女の立場だったのだ。R&Aとしても、260年もの歴史を持つだけに、18世紀の仕来りを引き摺って、当然だったと言える。

そして時代が変わった。ゴルフ界もそれに順応する必要。それが18日の開票だった。

投票の結果は「85%が、女性メンバー受け入れに賛成」だった。R&Aの専務理事、ピーター・ドウソンは、満面笑みを浮かべて語った。

同じ日、オールドコースの一番ティグラウンド。そこで行われた、R&A新キャプテンの、お披露目テショット。長年の伝統。今年も多くの市民が見守った。

同じ日、オールドコースの一番ティグラウンド。そこで行われた、R&A新キャプテンの、お披露目テショット。長年の伝統。今年も多くの市民が見守った。

「圧倒的な差に、誇りを感じている」。

遠い国の話。更に260年も昔(日本では宝暦4年。徳川十代家重の時代)に、発足したクラブ。それだけに、もう少し補足説明が、必要になる。そもそもR&AのAとは、Ancient。意味は昔のとか古代。オールドコースで、ボール(もしかしたら、石ころだったかも知れない)打ちが始まったのは、16世紀と言われている。それを強調する。その意味が、あったのかも知れない。

何れにしろR&Aは、1754年以来2世紀半以上。世界のゴルフ界をリードして来た。いまR&Aのメンバーは、世界中に約2400人。R&Aドウソン専務理事の話によると「そのうちの四分の三以上が投票。更にその85%以上が、賛成した」と言う。それでも、まだ十数%が「No」だったことは、意外なのだが。

そして今、刻の流れに応じ、男だけのプライベートクラブに、女性メンバーを加える決定をした。この事務的作業は、10月からになる。

同じように男だけのクラブだった、マスターズ会場の、オーガスタ・ナショナルGC。そこがアフリカ系男性に続き、2年前女性の会員を迎えた。その一人はライス元国務長官。現在スタンフォードの大学院教授だが、彼女もアフリカ系。時代はそこ迄、変化した。それがいまの21世紀なのだ。

ドウソン専務理事が、続ける。

「9月18日は、R&Aの歴史にとって、とてつもなく重要。そして前向きな記念日になった」。

日本人が知る、セントアンドルーズと言えば、オールドコース。とんでもないこと。スコットランドの首都エジンバラに近い、セントアンドルーズ。そこにはオールドコーストとは別に、更に7つのリンクスがある。リンクスとは、言う迄もなく、スコットランドでは、ゴルフ場の意味。そこでは既に、過去数十年多くの女性が、男性に混じり、または女性だけで、ゴルフを楽しんでいる。

その様な流れの中、女子のゴルフ選手権、全英女子オープンも、数年前ゴルフの聖地と言われる、オールドコースで開催された。

ゴルフは2016年。五輪種目に112年ぶりで復帰する。ニクラスたち多くの識者との共通の考え。それはゴルフの大衆化。そのための一つの方策。それは女性が、ゴルフを楽しむこと。何故なら、女性はお母さん。母親が愛好すれば、子供もゴルフに馴染む。それが理由だ。

英国のかつての名称は、大英帝国。航海術を駆使し、世界の七つの海を支配。地球上あらゆる処に、植民地を設けた。当時「大英帝国に、日の没する時ナシ」とさえ豪語したほど。その遺産が英連邦国家群。いま世界の外交ビジネス用語が英語。またゴルフが世界中に、普及した背景も、ここにある。

時を同じくして、オールドコースの、一番ティグラウンド。ここでは選ばれた、この先一年のR&Aキャプテン。彼のお披露目ティショットが行われている。例年通り、それを多くの、セントアンドルーズ市民が見守った。長年の伝統。それを残しながら、女性を会員に迎える。R&Aも、そしてゴルフ界そのものも、時代の変化に、しっかり対応している。

(Sep.22.2014)

無意味。墜ちたタイガー・ウッズの、次のコーチ論争

 中央の痩身男性が、タイガ(右)ーの2人目の、スイングコーチだったハンク・ヘイニー。マーク・オメーラ(左)は、タイガーが兄のように慕うプロ仲間。そのオメーラを、成功に導いたコーチがヘイニー。その関係で、ブッチとの関係が終わった後、タイガーとの契約に至った

中央の痩身男性が、タイガ(右)ーの2人目の、スイングコーチだったハンク・ヘイニー。マーク・オメーラ(左)は、タイガーが兄のように慕うプロ仲間。そのオメーラを、成功に導いたコーチがヘイニー。その関係で、ブッチとの関係が終わった後、タイガーとの契約に至った

ツアーに復帰したものの、痛みが再発。この夏、絶不調を続けたタイガー・ウッズ。それが理由の一つ、でもあったのだろう。2010年からスイングコーチ契約していた、カナダ人インストラクターの、ショーン・フォリイ(40歳)と解約した。プロとキャディの関係同様、ツアーの世界では、よくある話。

プロ転向時はブッチ・ハーモン。2人目のハンク・ヘイニーに続く、三代目のスイングコーチだった。
この18年。奇しくもタイガーのバッグを担いだキャディも3人。それらはフラッフこと、マイク・コーワン。二代目がスティーブ・ウイリアムズ。そして現在のジョー・ラカパ。その間に記録した米ツアー優勝は79回。勿論その中には、14箇のメジャータイトルが、含まれている。

その第一人者が、今季は獲得した賞金が、僅かに10万8275ドル。首位でシーズンを終えた、25歳マキロイの稼ぎ(828万0096ドル)と比較すると、目が眩むほど少ない。ランキングは何と201位。

3月31日腰にメスを入れた。それが理由で、マスターズと全米オープンは、出場さえできなかった。回復までに「最低でも90日の治療が必要」だったからだ。そして7月の米ツアーで復帰。続いて全英オープン、全米プロ等で合計7試合。だがタイガーらしさは、何処にも見られず。その結果として、フォリイとの決別。待ってましたとばかりに、米のスポーツマスコミは「さあ、タイガーの次のコーチは誰か?」との論争で姦しい。

結論から書くと、これはまったく無意味。それが私の判断だ。何故ならタイガーの、現在の不成績は、スイングに理由があるわけではない。体調の問題。それはゴルフ場へ行く前に、医師に相談すべきこと。もう一つある。タイガーほどゴルフに精通したプロ。彼なら、一々インストラクターを必要とせず、自分の脳内に蓄積した、知識で充分処置できるとの判断だ。

まず一つ目の話。タイガーの栄光の歴史は、同時にケガの繰り返しでもあった。幸運にも私は、1997年3月末。週刊文春で2週連続、4頁寄稿する機会を得た。その約半年前スタンフォードを2年で中退して、プロ転向していたタイガー。当時としては、破格の70億円契約金。登場した超スーパー新人に、編集部白幡デスクが、関心を示してくれた。その結果だった。

期待通り、タイガーは翌週のマスターズで、初のメジャータイトルを、掌中に収める。それも2位カイトに、12打差を付ける圧勝。圧巻だったのは、池越えのパー5,15番。かつて青木功が、レイアップ(刻む)してバーディを取った時。拍手がマバラだった名物ホール。そこで21歳は、第二打を何と、ピッチングウエッジで打っている。スコア的な強さだけでなく、この飛距離に、世界は驚愕した。

タイガーと彼の両親を、私に紹介してくれたのは、加州のプロ、スティーブ・クック。タイガーがまだ中学生の時。

それ迄スティーブは「アフリカ系だが、騙されたと思って、一度会ったらいい。とんでもない逸材なのだから」と、繰り返し私に、助言してくれていた。そのお陰で、タイガーが中学生の時から取材して来た幸運。25年前のこと。まさかアフリカ系の子供が、その後世界のゴルフ界を、リードすることなど、誰も考えない時代だった。

その後タイガーは、順調に成功の階段を登る。財産一つは類い希な飛距離。それを産んだのは、超高速のスイング。処がこれが、両刃の剣だった。スティーブが早くから危惧していたのは、この部分だった。

「タイガーのスイングは、強くて高速。その力を受け止めるのは左膝。その部分の負担が、他の誰よりも大きい。その結果として、遠からず左膝が痛み出す可能性」。それがスティーブの危惧だった。スティーブの読みは的中する。タイガーはその後、大学時代を含め、4たび膝にメスを入れる。08年の全米オープンで優勝した。その時は膝の痛みを、堪えながらのものだった。

その後は、痛みが膝だけに留まらない。足首、腰から背中へと広まる。そして今年3月31日。マスターズ直前に突然の手術。そして現在の、不振に繋がっている。だから、いまタイガーに関し、次のスイングコーチの話をしても、意味がないことなのだ。

スイングコーチに関し、別の考え方もある。クリス・ディマルコは、05年マスターズで、最後までタイガーと、グリーンジャケットを争ったプロ。彼の持論は、こうだ。

「米ツアーは、世界最強のツアー。そこで僕たちは中心的な存在。それ程の技術を持つ我々が、衆人環視の中で、何故コーチと称する人間の、教えを受けなければならないのか」。

その逆はミケルソン。彼はスイング全体はブッチ。ショートゲームとパットは、デーブ・ペルツ。更にここ数年に限っては、かつての強豪プロ、デーブ・ストックトンの教えを得ている。

ディマルコ、ミケルソン。それぞれの言い分に必然性はある。例えば他の職業でも、物事の判断をする時に、相談する相手は必要。それと同じかも知れない。

ジャック・ニクラスの、最後のメジャータイトル。それは彼が46歳の時のマスターズだった。その結果、彼の獲得メジャータイトルは、18箇に達した。一方のタイガーは、この12月で39歳になる。彼が背負った薪は、ほぼ燃え尽きた。それが私の受け止め方だ。

そのかつてのスーパースターの、次のコーチの話。それはだから、まったく無意味でしかないことが判る。(Sep.15.2014)

いま日本が学ぶもの。それはライダーカップの熱狂と、話題作りだ

 欧米両チームのキャプテン。左が米ワトソン。右が欧州マッギンレイ。今月28日の終了まで、彼ら2人の一挙手一投足が、欧米の新聞テレビを賑わす。それはライダーカップが、次々話題を繰り出すからだ(photo courtesy of Global Golf Post)

欧米両チームのキャプテン。左が米ワトソン。右が欧州マッギンレイ。今月28日の終了まで、彼ら2人の一挙手一投足が、欧米の新聞テレビを賑わす。それはライダーカップが、次々話題を繰り出すからだ(photo courtesy of Global Golf Post)

このところ日本でも、人気が高まっている、ライダーカップ。1927年から続く、欧米(初期は英米対抗。1973年からは、英アイルランド連合vs米国。更に1979年欧州vs米国に拡大した)対抗試合。二年に一度の大舞台は、今回今月最終週、スコットランドの有名なグレンイーグルスで、行われる。ブレア政権時代の2005年。ここはG8サミットの会場にもなった施設。スコットランドを代表する、高級リゾートだ。

両チーム12人。両軍合わせ、僅か24人。超エリートの、まさにゴルフ界最大のスポーツショー。両サイドとも、9人はライダーカップ得点で、自動的に選ばれる。ちなみに米のトップは、マスターズ優勝のバッバ・ワトソン。欧州の一位は、今年2つのメジャータイトルを、掌中に収めた、25歳マキロイ。

キャプテン推薦は、得点こそ上位でなかったが、現時点で勝つために、キャプテンが「絶対に必要とする戦力」を選べるシステム。米のキャプテン、トム・ワトソンは、その3人にハンター・メイハン、キーガン・ブラッドリー。そしてウエブ・シンプソンを選考。一方欧州のキャプテン、ポール・マッギンリーは、ガラハー、ポールター。そして42歳の英国人、リー・ウエストウッドを選んだ。

勝つために両キャプテンが、重視するのは各プロの経験。ウエストウッドは、これ迄何度も、四大タイトルにニアミスして来た。それとは別に、世界ランク1位にも登り詰めた。その時はタイガーを、蹴落としてのものだった。またライダーカップは、1997年以来、これ迄8連続出場。そのうち六度、欧州の勝利に貢献している。これは大きな切り札になるはず。

そのライダーカップ、商売が実に巧みだ。競技そのものは、僅か3日。金土曜は午前と午後合わせても、僅か8マッチ。フォーマットは、フォアボールとフォアサム。これ日本では馴染みが薄い。だがこの双方とも、キャプテンの采配の妙が、随所に発揮される。まさにライダーカップの華と言える。

ライダーカップの主役は数万の観客。彼らは最初のマッチ開始の、1時間以上も前から会場を埋め尽くす。今年の場合だと、緯度の高いスコットランドで9月最終週。そこで競技開始の1時間前は、まだ薄暗い。それにも拘わらず巨大な国旗を振り、足を踏み鳴らして応援歌を続ける。そして日曜日のシングルス12マッチで決着。3日間僅か28マッチのドラマに、観客の熱狂は頂点に達する。

もちろん週前半、木曜日までは連日セレモニーが続く。そこでも万余の観客に、大きな満足を与える。

更にその前、例えば9月2日に行われた、両軍のキャプテン推薦選手の発表。これだけでも欧米の、マスコミは巨大な報道をする。それに備えるため、主催者は1年以上も前から、入場券を販売する。またデザインの優秀さもあり、記念品が飛ぶように売れる。まさに商売上手。それより前、2年前の冬。ワトソンのキャプテン就任は、米三大ネットの一つ、NBCの朝のニュース番組。そこにワトソンが、生出演して行われている。

実は日本でも、これを真似たイベントが、実施されている。それらは欧州との対抗、ロイヤルトロフィーとか日韓戦。だがこれら、実際はテレビマッチ程度のもの。それでもツアー機構は「アジアと欧州の、ライダーカップ」と騒ぐ。彼らライダーカップの実体を、何処まで理解把握しているのか。ろくに見たこともないモノを、とやかく言うのはプラスにならない。

マーク・マコーマック氏は、1960年に初のマネジメント会社、IMGを立ち上げた、スポーツビジネス史の功労者。彼が次のようなことを言っていた。

「毎週同じような、ストロークプレーの、ゴルフでは飽きられる。時々マッチプレー。そして男女のミックスチーム戦。これなども観客に喜ばれるはず」。

1960年代、彼はパーマー、ニクラス、ゲイリー・プレーヤーのビッグ3を形成。世界をツアー。日本にも立ち寄った。ロンドンのウエントワースで、長いこと実施されていた、世界マッチプレー選手権。これもマコーマック氏の仕掛けだった。

翻って日本のプロツアー。最近の情報に拠ると「来年消えるトーナメントがある。それも複数の可能性」と言う。プロ達に人気がない。更にアジアのプロ達が、日本人プロを凌駕する毎週。もしかして男子ツアーは、20試合を切ることへの危惧。その危機を乗り切るカギは、観客やテレビ桟敷に、熱狂を伝えること。そのお手本が、今月最終週のライダーカップなのだ。

私が初めて取材したライダーカップは1989年。英国ベルフリー。その後も1991年のキーワー島オーシャンコース。1997年のスペイン。更に1999年のボストン等、日本では原稿も写真も、売れない競技の取材に、繰り返し出掛けた。然し振り返ると、ライダーカップほど、カメラのシャッターを、多く押したイベントはない。プロのフォトジャーナリストが、熱狂させられる被写体。これは一般のファンをも、間違いなく虜にするはずだ。

(Sep.08.2014)