世界との架け橋。一人の女性の葬儀に、プロゴルファーが溢れた

 

2020年五輪へ、先頭を走る、JOC竹田会長をはじめ、プロ協会の倉本会長。JGTO池田選手会長たちから、多くの供花(通路左側も)が届いて居た。国際舞台での故人の、広範な人間関係を、物語るモノだった

2020年五輪へ、先頭を走る、JOC竹田会長をはじめ、プロ協会の倉本会長。JGTO池田選手会長たちから、多くの供花(通路左側も)が届いて居た。国際舞台での故人の、広範な人間関係を、物語るモノだった

横浜の外人墓地にほど近い、丘の上の山の手教会(聖教会)。ここで執り行われた、一人の女性の通夜と葬儀告別式。千葉でのブリヂストン・オープンの週にも拘わらず、両日とも多くの関係者が参列。特にお通夜の21日は、練習ラウンドを終えたプロが挙って駆け付け、教会から、はみ出したほどだった。

亡くなったのはクリス・トモ(鞆)。未だ五十代の年齢。ポルトガル人の父親と日本人の母親。結婚前の名前はクリスティーナ・リッチー。急性白血病だった。

日本語以上に、英語が先に出る完璧なバイリンガル。その才能を生かし、米企業タイトリストに長いこと勤務。その後独立し、主に日本を主戦場にする外国人プロ(豪NZ米など)をマネジメント。亡くなった15日の週、開幕した米ツアー、Frys.com Open第一ラウンド。66で5位発進した、韓国のドンホワン。かつて彼は2年間の兵役を終えた翌日、即刻東京へ飛来。その先の活動に関し、クリスに相談。2年間のブランクを、短時間で乗り切っている。

3/11の後。息子と契約プロを帯同。子供達への沢山の土産を持参し、被災地を慰問している。

厳かな雰囲気で、葬儀を待つ早い時間の聖堂。喪主のご主人は、愛妻の早過ぎる死に、憔悴し切っていた

厳かな雰囲気で、葬儀を待つ早い時間の聖堂。喪主のご主人は、愛妻の早過ぎる死に、憔悴し切っていた

学んだ学校は、アメリカンスクール。部活は乗馬。その関係で、アン王女の元ご主人、Mark Pillips大尉とは、彼が乗馬競技で来日するたびに、アテンドするツーカーの間柄。英王室に窓口を持つ、数少ない日本の個人だった。

年齢は離れているが、JOC竹田恆和会長(日本馬術連盟副会長)は乗馬の出身。そんな繋がりで、竹田会長に対しては、英語の指南役だった。

ゴルフ、そして乗馬はじめ、多くの近代スポーツは、明治維新の前後、英独など欧州から伝わった。その道案内をした欧州人と日本人。彼らに求められたもの。それは言葉だった。数年前、全米オープンの国内予選を通過した、数人の日本人プロ。彼らがクリスに、通訳兼臨時のマネジャーを依頼。急遽米東部まで出掛けたこともあった。

言葉だけでなく、現地会場に顔の利く人間が居なければ、競技では著しく不利。そんな時、クリスは大きくサポートした。

それでも競技をするプロの様に、目立つことはない。だがクリスの様な存在がなければ、日本のゴルフは、ここ迄発展しなかった。

DSCN0004告別式で会った一人は、NZのデビッド・スメイル。「これほど残念で悔しいことはない」と、私の手を握った。かつての日本オープン勝者も四十代半ば。峠を越しているが、それでも先週のブリヂストン。土曜日を終えて、優勝戦線に加わっていた。マネジャーとして、そして親友として、長いこと付き合いのあったクリスに、好成績を捧げたい。その気持ちの現れだったことは、勿論だった。

20日の告別式。教会に溢れた関係者の中には、ゴルフだけでなく、乗馬を始め、多くの五輪関係者も目に付いた。過去数十年、歴史の中でクリスが果たした、世界への架け橋。その役割の大きさを、物語る参列者だった。合掌。

(Oct.26.2015)

時代の急変。高層ビル背景の、P杯テレビ中継

NBCのオープニングは、首都圏の高層ビルを背景に、ニクラスを迎えて始まった。左は解説者のジョニー・ミラー。新時代の幕開け。余談だがこの近くには、年間33万人の客で、賑わうゴルフ場もあるそうだ。プロ競技の舞台から、大衆ゴルファー迄、韓国の熱気は凄い

NBCのオープニングは、首都圏の高層ビルを背景に、ニクラスを迎えて始まった。左は解説者のジョニー・ミラー。新時代の幕開け。余談だがこの近くには、年間33万人の客で、賑わうゴルフ場もあるそうだ。プロ競技の舞台から、大衆ゴルファー迄、韓国の熱気は凄い

百年の時間は、あらゆるものを変革する。それは五輪も、ゴルフ場の概念も。

2020年を巡り、揉め続ける五輪はさておき、ゴルフのプレジデンツCupが行われた、韓国のジャック・ニクラスゴルフクラブ。この写真で一目瞭然。ここは古い概念を、見事に歴史の彼方へ追い遣った。

コースは東アジアのハブ空港インチョン国際空港の至近。雄大なフリーウエイの橋も、打球が届きそうな距離を走っている。これと似たコースは、ニューヨークの、湾岸エリアにも既に見られる。

百年前のゴルフは、カントリークラブだった。都市部で一週間働いた富裕層が、週末をゆっくり過ごす。そのためカントリークラブには、豪勢なクラブハウスとゴルフ、乗馬、プールばかりか、英国人の好きな狐狩りの森まで用意されていた。

その伝統は米でも受け継がれた。百十年前1905年の全米オープンは、歴史の町ボストン郊外の、マイオピア・ハントクラブのゴルフ場が舞台だった。ハントクラブとは、言わずもがな狐狩りのことである。

ゴルフを楽しむ大多数は、今でも大きな樹木でセパレートされたコース。其処でのプレーを好むはず。ただしビジネスになると、話が異なる。

特にトーナメントは、客を大勢集める必要がある。その時カントリークラブの概念は、マイナスに作用することになる。最大の要因はギャラリーにとっての足の便。

スポーツショーの欠かせぬ要因。その一つは動員する観客。ドームにしても電車を降りれば、そこは球場のゲート。だから毎試合4万からの観衆を呼び込める。それに比べカントリークラブへ到着する迄には、結構な時間を要する。往復で3時間とか4時間。道路の渋滞も加わる。

プレジデンツCupが開催された、ニクラスゴルフクラブ。この舞台背後に林立する、首都ソウル圏の高層ビル群が、輝いていた。歴史を否定することではないが、ゴルフのビジネスにとって、新しい発想の到来。それを伝えるものだった。

そのニクラス。地球上で三百余を設計し、その数は現在でも、年々増えている。彼は勝手に青写真を描いているわけではない。一つ各々依頼主の要望に、綿密に応える。その姿勢を崩していない。その一つの表現。それが韓国のニクラスゴルフクラブだったのだ。

四月のマスターズ。この一週間、観戦が終わると、広大な芝地の駐車場では、ピクニックが始まる。一年に一度会う、マスターズの友達との、再開を楽しんで。その間に道路の混雑も消える。

一週間で50万を超す、観客を集めるアリゾナのフェニックスオープン。この期間コース内に6、7つの巨大テントが出現。そこでは飲食をしながら、ナマ演奏とダンス、お喋りを、夜十時過ぎまで楽しめる。

日本人は殆ど知らないが、これがカントリークラブ的発想と決別した、ツアー競技ビジネスの、最前線なのだ。

(Oct.19.2015)

12番目の代表。ハース父息子が描いた、筋書き通りの結末

米の雑誌も、この父息子の感動場面を、表紙に持ってきた(Global Golf Post)

米の雑誌も、この父息子の感動場面を、表紙に持ってきた(Global Golf Post)

米のキャプテン、ジェイ・ハースには、ゴルフを受け継いだ息子が二人いる。長男がジェイ・ジュニア。今回プレジデンツCup代表に選ばれたビルは次男。

二人とも、父と同じウエイクフォレスト大に進学。同大ゴルフ部は、ジェイの実弟が監督。これ以上は求めようがない、環境に恵まれた。それでも父親と同じ道を、ジェイ・ジュニアは、歩めなかった。

土曜10日夜遅く届いた、シングルス12マッチの組み合わせを、私は長時間検討した。ライダーカップ共々、一週間の勝敗を分ける。それがシングルス12マッチ。私が国際チームで「勝ち」または「有利」としたのは、オストハイゼン、リー、バオデッチ、ラヒリ、デイ、グレイス、そしてベサンムン。

大舞台での、筋書き通りの勝利。ハース父息子にとって、生涯最良の日になった(PGATOUR.com提供)

大舞台での、筋書き通りの勝利。ハース父息子にとって、生涯最良の日になった(PGATOUR.com提供)

其処で3マッチ、悩んだ。一つは二人の豪州人エース。よもやデイが落とすことはあるまい。他方スコットの相手はファウラー。調子は落としていたが、勢いのある若手。読み違いは他にもあった。松山だ。相手のホームズ。格は松山が上。とは言えデッカイボールで、ガンガン攻めてくるタイプ。初対戦だけに危惧した。

ただし米の記者仲間は「松山の1アップ」が殆どだった。

国際チームのキャプテン、プライス。彼は最終12番目のマッチに、ベサンムンを投入した。唯一人の韓国代表。然もこれを最後に、2年間の兵役義務が待っている。韓国が舞台のプレジデンツCupで、これ以上の設定はない。その悲鳴とさえ言える熱狂に応える。米キャプテンは次男ビルを当ててきた。

熱狂の後の失望。スタンドを埋めた大観衆を前に、握手をする2人。右(白いウエア)は国際チームのプライス・キャプテン。彼の野望は、もう一歩の処で、届かなかった(Global Golf Post)

熱狂の後の失望。スタンドを埋めた大観衆を前に、握手をする2人。右(白いウエア)は国際チームのプライス・キャプテン。彼の野望は、もう一歩の処で、届かなかった(Global Golf Post)

この勝負、ベサンムン有利としたのは、私だけではなかった。米の記者たちも「1ダウン」または「2&1」で、ビルの負けを予想した。その結果私の予測では、12マッチ中、国際チームが7つ獲る。これは若しかしたら若しかする。

早速米のGlobal Golf Post 他に連絡を入れる。それを見た米の読者は「ハハーン。デュークはアジア人だから、身贔屓か」と返して来た。

プレジデンツCupの代表は、11人目と12人目が、キャプテンの推薦。其処へ米はミケルソンとビルを選んだ。キャプテン、ハースはその時から、この最も過酷な役回りを、自分の次男に遣らせる。その腹積もりが、出来ていたと推測していい。

劣勢に回った最終日。その中18番のイーグルで追い付きHALVED。4日間5マッチ、不敗undefeatedを成し遂げた男の顔に、達成感と誇りが溢れていた

劣勢に回った最終日。その中18番のイーグルで追い付きHALVED。4日間5マッチ、不敗undefeatedを成し遂げた男の顔に、達成感と誇りが溢れていた

獅子の子落とし。まさにその心境だったに違いない。尤も、それに対し、ザック・ジョンソンたち何人かが「僕がアンカーを遣りたい」と願い出ている。キャプテン・ハースはその願望に「与えられた自分の役に、全力を投入してこい」と言って、送り出している。

1927年から、約90年続くライダーカップ同様、この手のチーム戦は「キャプテンのゲーム」と言われる。キャプテンのイメージ通りに、自軍12選手を動かせる、と言うことだ。

先月末の代表12選手発表の場。其処で米12番目に、次男ビルを指名したキャプテン・ハース。ここ迄筋書き通りに決着するとは。賞金なし。国旗を背にした、個人の誇りを賭けた戦い。その重みがあった。

(Oct.12.2015)

今季最大の追い上げ劇。全米Open2位オストハイゼン

出場者の大多数が手を焼いた、チェンバース湾コースのグリーンを、金曜日以降ほぼ読み切ったオストハイゼン。彼らの強みは「ゴルフが、アンデュレーションのゲーム」であることを、理解していることだ

出場者の大多数が手を焼いた、チェンバース湾コースのグリーンを、金曜日以降ほぼ読み切ったオストハイゼン。彼らの強みは「ゴルフが、アンデュレーションのゲーム」であることを、理解していることだ

一打差の2位に終わったことの無念。そうでなく、第一ラウンド77。その出遅れから、金曜日以降66、66、67で盛り返した、高い技術と集中力。それが全米オープンの舞台だった。南アのルイ・オストハイゼン。

スピースやデイの前に、ツアーMVP争いには加われなかった。だがハリーウッドに置き換えれば、紛れもなく最優秀助演賞ものの活躍。ただし2010年全英オープンで、既に四大タイトルも掌中にしている。押しも押されぬ、世界的な一級プロ。玄人受けするタイプ。

振り返って6月。全米オープン木曜日。オストハイゼンは77を叩いた。偶然とは言えこの時の同組は、タイガーとファウラー。2人は初っ端から80、81と乱れる。プロ同士他人のスコアに影響されることは少ない。とは言えオストハイゼンもスコアを崩した。第一ラウンド68のスピースとは9打差の77。常識的に、この時点で脳裏を過ぎることは二つ。「どの様にして36ホールを通過するか」。もう一つは、早々諦めるか。

果たせるかな、タイガーとファウラーは、最下位近くでカットされた。だがオストハイゼンは違った。金曜日以降の三日間で11アンダーと盛り返す。そして通算4アンダー。優勝したスピースを、一打差にまで追い込んでいた。滅多に見られない猛追。これは今季最高の追い上げだった。

米ツアーを取材していて面白い部分。それは最終日バック9での、手に汗を握る攻防。他のスポーツでも、大詰めでの抜きつ抜かれつ。どんでん返し。これは観る側にとって、堪らない魅力になる。

続く7月の全英オープン。この時は最終ラウンドが、月曜に持ち越されたほどの強風悪天候。その中でオストハイゼンは、3人のプレーオフに残っている。

あらゆるタイプの、コースで結果を出すオストハイゼン。それを支えるのは、レベルの高いスイングだ

あらゆるタイプの、コースで結果を出すオストハイゼン。それを支えるのは、レベルの高いスイングだ

オストハイゼンが創った熱狂は、未だある。2012年のマスターズ最終日。セカンドが打ち下ろしの2番パー5。4番アイアンの第二打は、253ヤード先のカップに消えた。パー5のホールを2で上がる、ダブルイーグル。マスターズでの、有名なダブルイーグルは、1935年のサラゼン。この時15番で、第二打を放り込み、先行していた、クレイグ・ウッドを逆転して優勝した。いまでも語り草。

そのサラゼンから、オストハイゼン迄、マスターズで記録された、ダブルイーグルは僅か四つ。

それほど希な記録。これが効いてオストハイゼンは、通算10アンダー。首位に並ぶ。だがサドンデス2ホール目でボギーを打ち、ピンク・ドライバーのバッバ・ワトソンの軍門に下った。

それにしても、メジャーの舞台で、これだけの活躍をする高いスキル。その南ア人が次に登場するのは、今週8日開幕のプレジデンツCup。これは米vs.国際チームの戦い。マッチプレーのチーム戦だけに、過去を振り返っても、試合の鍵を握る男が登場する。今季の実績から推し量り、その一番手は紛れもなく、この男になる。

そのオストハイゼン。最近PINGとの、契約を更改している。ベテランのウエストウッドを筆頭に、PINGのプロは、殆ど生涯PINGの用具で押し通す。理由は「よい道具でプレーすれば、結果は付いてくる」(ウエストウッド)。

プレジデンツCupの舞台は韓国。国際チームが勝った場合、MVP候補のナンバーワンは、オストハイゼンだ。

(Oct.05.2015)

このオフ松山は、最低でも一ヶ月の、長期休暇を取るべき

2013年5月20日。旅発つ前、日本外国特派員協会で記者会見した松山。この直後全米メリオン、全英ミュアフィールド両オープンで、好成績のスタートを切った

2013年5月20日。旅発つ前、日本外国特派員協会で記者会見した松山。この直後全米メリオン、全英ミュアフィールド両オープンで、好成績のスタートを切った

終わったばかりのツアー選手権。この後松山は、一ヶ月以上の長期休暇を、取るべきだ。

ツアー選手権を、他に置き換えるとMLBのワールドシリーズであり、NFLのスーパーボウル。優勝しようと出来まいと、エリートの30人に残れる。これは素晴らしい成績。条件は同じとは言え、特に松山には或る種のハンディがある。それは言葉の壁だ。

早くから「海外へ出て、メジャーで勝ちたい」との意欲を示していた松山。それに対し、日本のマスコミは「あの英語力では、外国は無理」との冷たい反応。その頃私は、次のような取材談を話した。

「英語力について質問された野茂は、こう答えた。僕は米国へ、ボールを投げに行くのです。英語を上達させることが、目的ではありませんので」。

松山は、即座に自説を口にした。

「そうかも知れません。でも野球の投手と比較し、ゴルフは歩く時間が長いです。言葉が通じれば、その分多くの情報が、入ってくると思いますので」。

東北福祉だから、余り勉強はしなかったみたい。だが「この若者は賢い」と、直感させられたことを、鮮明に憶えている。

さらに23歳の若さは、順応性が高い。新しい知識をスポンジの如く、この2年間吸収したはず。その一方で異なる言語を駆使して、世界を旅することの気苦労。さらに日本とは、比較にならない旅程の大きさ。毎週がホテル暮らし。自宅のような寛ぎは得難い。

何れにしろ、ツアー選手権が今季26試合目。この間日本でも一試合している。合計27試合は多過ぎる。特に四大タイトルを、狙おうとするなら。

ニクラスは、メジャー最多18勝。それだけの数字を残した彼。それでも20試合以上したシーズンは僅かだった。

Air Bear 2012_014_彼を追い掛けたタイガー。エージェントIMGは、プロ転向に当たり「年間20試合まで。空いた時間は、大きな獲物獲得の準備に当てる」を、キッチリ打ち出した。ツアープロは大衆の前に自分を露出する職業。それだけに消耗は厳しい。だからプライベート時間を、より多く持ち、同時に人間としての総合力を高める。松山はこの先プレジデンツCupもある。11月日本の試合も考慮される。そうなると計30試合近くになる。如何にも多過ぎる。

これがニクラスの愛機Air Bear。豪華な機内は、まさに空飛ぶオフィス(coutesy of Nicklas Companies)

これがニクラスの愛機Air Bear。豪華な機内は、まさに空飛ぶオフィス(coutesy of Nicklas Companies)

2年前2013年。渡米して直ぐの頃は、ジジイの戯れ事を時々メール送りした。勝手なことを、あれこれ書いた。

「余所の世界の人と会うこと。日本なら王さんとか、大相撲の北の冨士さん。教訓も得られるだろうし、粋や洒落も身につく。努々日本人プロは相手にしないこと。いや一人例外。読書量の多いジャンボ。この男の抽斗の多さは、群を抜いている。だから彼は、あれほど喋れる」。

「週はじめの練習日。代わりに神楽坂辺りで、芸者衆と遊ぶことも、芸の肥しになる」。

2年前「プレーしたいコースは、ペブルビーチ」。その程度の知識しかなかった若者が、いまや世界中の有名コース、何処でも出入りできる迄に急成長。その一つミュアフィールド・ビレッジGCでは、御大ニクラスの前で初優勝した。

この2年。日本にいた頃には、想像できなかった世界を、日々体験している松山。それでもニクラスは、更に上の別格。70~80億円はする自家用ジェット機で、年中世界を飛び回る。設計したコースは、地球上で既に三百余。全世界ゴルフ場の、何と一%を彼が手掛けているのだ。

一度でいいから、彼のジェット機Air Bearに乗せて貰う。またフロリダのニクラスの自宅を訪問する。
松山にその気があるなら、ニクラスには何時でも話を繋いで上げる。ジャックだけでなく、奥さんバーバラとも会うこと。彼女の内助の功は近い将来、松山が相手を決める時の、参考になるはず。何しろ彼女は、ゴルフ界のファーストレデイなのだから。

前出、王さん、北の富士さん、ジャンボ。そしてニクラス。彼らはそれぞれに頂点を極めた。そのために何を遣ってきたか。それは背中で教えてくれる。

11月契約絡みで、日本のトーナメント出場。当然その準備が進んでいる可能性。構わない。其処で不義理をしてもよいから、秋は一ヶ月以上の長期休暇を取ることだ。正月が明け、新しいシーズンが始まった時、そのことの成果を、実感できることになる。それは念願のメジャータイトル獲得へ、一歩前進する。そのことだ。

(Sep.28.2015)

出涸らしの茶どころか、タイガーいよいよ引退の危機

優勝パットを決め、大観客の声援を受ける、かつてのタイガー。この勇姿は、もう見られそうにない(PGA TOUR提供)

優勝パットを決め、大観客の声援を受ける、かつてのタイガー。この勇姿は、もう見られそうにない(PGA TOUR提供)

通年制を採用した、米ツアー。2015~16年は、10月15日。加州ナパでの、frys.com Openで開幕する。ナパは長いこと、NBC解説者ジョニー・ミラーのお膝元。ワインの産地としても有名だ。

時期的にツアー選手権と、プレジデンツCupが終わったばかり。米の主力、そして豪のデイ達にとっては、束の間の休息期間。従って顔触れが、大きく落ちることは避けられない。賞金も6百万ドル。それでもゴルフチャンネルがある。開催エリアでは、大きな盛り上がりを見せる。それが米ツアーの強み。

主力不在のfrys.com Openに、早々と出場を表明した、有名プロが2人いた。タイガーとマキロイ。

マキロイには然るべき目的がある。全英オープンから約二ヶ月、長期欠場。

「怪我した左足首は完治。ゴルフも百%コンペテティブな状態に戻った」。それでも試合感は鈍っているはず。その部分を一日も早く百%に戻す必要。もう一つ。これから11月にかけ、欧州ツアーは賞金王決定の、大一番に繋がる。従ってfrys.com Openとは言え、勝ち癖を取り戻しておくことは重要。

一方のタイガーは、そんな悠長な立場にない。先月のワインダムは、谷間のトーナメント。そこで這いつくばって10位。これは2013年バークレイズ(2位タイ)以来約2年ぶりのトップ10。これだけ悪ければ、各ランキングは止めどなく落ちる。

獲得賞金は、僅か44万8598ドルで162位。世界ランクは283位。FedExの順位は178位。ワインダムで優勝または単独2位。これでプレーオフ出場を掴める計算だった。だが今のタイガーに、そんな芸当、出来るはずない。

代わって飛び込んで来た話。それがタイガーが再度、腰にメスを入れるとの深刻情報。水曜日と言うから、週明け早々の23日。その後「2016年初め頃までは、トーナメント活動はできない」とのコメント。

最初にメスを入れたのが、昨年3月30日。マスターズの直前と言う緊急。そのため6月の全米オープンまで欠場した。医師の診断は「コンペテティブなゴルフが可能なのは百日後」。それとほぼ同じだろうから、今回も正月明けまでは、完全休養が必要になる。

そんなことで、早々とコミットメントしていた、frys.com Open出場も取り下げ。

それを受け、ジム・ニュージント編集長のGlobal Golf Postが「この事態が、タイガーの今後に、どう影響を及ぼすか?」と、問題提起している。

私は即座に返答した。「ジム、これはタイガーの終わりを、意味すると思う。と言うことは、ツアープロとして引退。以前から私が主張してきたように」。 「39歳は他の職業では若い。とは言えタイガーは、2歳の時からテレビで脚光を浴びてきた。競技者としての年齢。それはいま60歳過ぎ」。

全米オープンの前だから、6月上旬。この時も私は「誇りがあるなら、タイガー、キミは引退すべき」と書いている。不安は的中。全米オープンでまたしても80台を叩く。続く全英オープン、全米プロと共に36ホールでカットされた。

私の言う誇り。それはツアー79勝。そしてジョーンズ、ニクラスと並ぶ、過去百年のビッグ3。タイガーは歴史の中で捉えられる、その部分なのだ。

同じプロ競技者でも、野球、フットボールなどは、ある年数が来れば競技者は、引退と直面することになる。そんな中シニア・ツアーもあることで、ゴルフのプロは、踏ん切りを付けるのが困難。それでも80を打つゴルフは、観客に見せるモノではないはず。

一部米のマスコミが「タイガーは、2016年シーズン、一勝はする」との的外れ予想。嘲笑させられた。そのタイガー、出涸らしの茶を通り越し、いま引退と直面している。さて、どうする。

(Sep.21.2015)

86歳パーマー。誰にも優しさを続ける。それがKingの有り様

Kingパーマーとシーハンの楽しそうな表情。彼は誰にも優しい、お爺ちゃんでもあることが判る(パティ・シーハンのお宝写真)

Kingパーマーとシーハンの楽しそうな表情。彼は誰にも優しい、お爺ちゃんでもあることが判る(パティ・シーハンのお宝写真)

9月は”King of Golf”アーノルド・パーマーの誕生月。1929年生まれは86歳。先週は米からスコットランド迄。祝福のメッセージが飛び交った。流石は御大。そんな中、いの一番に祝辞を送ったのが、半世紀に渡る、親友で宿敵でもあるニクラスだった。

私が本物のパーマーを、初めて観たのは1975年のマスターズ。本物の意味。それは米ツアー、または全英オープンの舞台で観ること。日本での彼らは、結局のところ花相撲でしかない。

この時のマスターズ3日目。最終組はパーマーとニクラスだった。35歳昇り竜ニクラスと46歳のパーマー。このあと最終日もニクラスが延ばす。この時まで、2人のマスターズ優勝はタイの四つ。その拮抗を、黄金熊が抜き去った時でもあった。

パーマーは取材者の私に取って、大きな年齢の開きがある。そのためニクラスのような、豊富な情報は得られなかった。
それでも「ゴルフを、地球全体に浸透させた功労者」「傘のマークのロゴを、ゴルフ場の外でも大ヒットさせた」「自家用ジェット機の操縦桿を、自ら握った」など、あらゆることを先駆して来た。まさにアメリカの夢の具現者。そんなことで一時は「パーマーを、大統領に」。そんな声も流布した。

オーガスタ・ナショナルGC敷地内には、大統領アイゼンハワーのコテージがあり、滞在中簡単な事務処理も出来た。その執務室も残されているほど。大統領を二期務めた後、アイクはパームスプリングスと共に、冬期オーガスタも好んだ。そのためパーマーも、多くの接点を持った。そこで政治家としての話が出る。2人とも国民的な人気者だけに、不思議はなかった。

私たちの世代で、王様と呼ばれた代表者は、パーマーと共にエルビス。1986年の全米シニアオープンは、オハイオ州コロンバスのサイオトCCが舞台。メジャー18勝、ニクラスの本拠地。木曜の午前、1番ティグラウンドに登場したパーマーに、大向こうから「King!」の掛け声。透かさず声の方向へ振り向き、笑顔で鷹揚に頷いて見せた。これはホーガンには、絶対できない芸当だった。

百歳の天寿を全うしたボブ・ホープ。その後パーマーは、ボブ・ホープクラシックの顔としての代役を果たしてきた。パーマーの本拠地オーランドからは、約5時間の飛行。6年前、彼は帰途操縦桿を握っている。とは言え、その年の誕生日。操縦免許の書き換えをしていない。

「もう充分だろう」との判断だったそうだ。私は叶わなかったが、仲間何人かが、最後のコックピット姿をカメラに収めた。撮る方も撮られる方も、感無量だったことは、言う迄もないことだった。

操縦桿は握らなくとも、飛行時間は相変わらず多い。この7月には大西洋を飛び、セントアンドルーズへも出掛けている。オールドコースでの全英オープン。そこで繰り広げられた、数々の儀式に出席する為だった。

パティ・シーハンは、日本贔屓の米女子プロ。父親ボボは、かつて冬季五輪で、米の監督を務めたほどの人。9月10日の誕生日は、パーマーと同日。そんなことで今回もシーハンは、パーマーとのカジュアルな、ツーショットを送ってきた。

ニクラスやトレビノたち、多くの有名プロと、私は親交を深めてきた。そんな中、パーマーだけは例外だった。一度来日中に単独インタビューもした。IMGの筆頭副社長の仲介で。それでも彼の私への印象。それは「アジアの坊や」から、抜けきられなかった。

ファンには誰にも優しさを貫く。一方で関係者にはシビアに査定する。それが人気商売の、クオリティを保つ上で不可欠なこと。本物の舞台で繰り返し取材をすることの大切さ。それを教えてくれたのも、パーマーだった。
生前インタビューしたバイロン・ネルソン翁。「アーノルドの登場がなければ、今日のような世界への、広がりはなかった」。

86歳の誕生祝いが、世界中で飛び交った。当たり前のことなのだ。

(Sep.14.2015)

日本人プロ。いまこそ世界に繋がる話題と、その必要性

母親アストリッドから送られてきた、微笑ましい写真。ショーンは何処まで成長できるか。日本の若手とも、仲間になれるか。マキロイやスピースとは、別の世界でのチャレンジだ

母親アストリッドから送られてきた、微笑ましい写真。ショーンは何処まで成長できるか。日本の若手とも、仲間になれるか。マキロイやスピースとは、別の世界でのチャレンジだ

「実力もないのに、猫も杓子も、メジャーリーグとは、世も末」と嘆く声。

一方で昨今スポーツは、大多数が世界を相手の競技。そんな中、大きく遅れを取っているのが、日本のゴルフ。理由の一つとして考えられること。それは世界との接点が、余りにも少ないこと。7月の全英オープン。日本ツアー勢7人は、全員が36ホールのカットで、振るい落とされた。この壁を乗り越えてこそ、話題性としても、世界に一歩踏み出すことが可能になる。

この写真、三千二百ドルの小切手を、手にするこの若者。名前はショーン・ジャクリン。ナニやら聞き慣れた名前。そう、父親はトニー・ジャクリン。名は父親トニーの親友、007のショーン・コネリーから、戴いたもの。

説明する迄もなく、父親トニーは、英国を代表するプロ。69年リザムでの全英オープン。続く70年には全米オープンでも勝利。更にその後ライダーカップのキャプテンとして、1983年から四度登場。2勝1分け1敗の好成績を残した。

ちなみに私が初取材したライダーカップは1989年。この時は14対14のドロー。表彰式で挨拶した米のキャプテン、フロイドが「どちらにも勝ちは付かなかった。とは言え、この熱戦はゴルフと言うゲームの勝利を、強く世界に印象付けた」との名台詞。この時も(残念ながら)日本のプロとの、知的レベルの大差を、実感させられた。

ショーンは、名選手であり、名将でもあったトニーの息子。高校時代には、全英オープンでバッグを担ぎ、父親の背中を見てきた。そして気が付いた時、父と同じ道を選んでいた。そして今は欧州ツアーの下部組織、チャレンジツアー中心の活動。三千二百ドルのこの小切手は、最近米で獲得した時、歓びの母親アストリッドが、私たち仲間内に送ってきたもの。

その時私は「千里の道も、一歩から。粘り強く」とのメモを返信した。

偉大な父親を持つ息子たち。ことゴルフに限っても、プロ転向したニクラスの3人の息子。ジャンボの長男智春。ゲイリー・プレーヤーの次男ウエインたち。そこそこ迄遣ったが、定着はできなかった。それはニクラス、ジャンボ、プレーヤー達が凄過ぎたこと。それはショーンにも当て嵌まる。

他の業種。例えば歌舞伎は世襲が利く。歩き始めた頃から、父親がマンツーマンで指導。そして二十歳前後で独り立ちする。それより何より、他にライバルが入れない社会。だから親の名跡を継げることになる。それでも取材する限り、看板を保つためには、大変な努力の積み重ねが、必要なようだ。

話は世界との距離が遠い儘の、日本男子ツアー勢。前述通り全英オープンで全滅。それでもこの秋、岩田寛が米ツアーに挑むそうだ。

正直な比較。日本ツアー勢の多くは、米ならWeb.comTour。欧州だとチャレンジツアーのレベル。そのギャップを、岩田が乗り越える。そのためには、行く先々で必要な情報を着実に得る。勿論それは世界共通基準の。それは自分のプレーの後押しになる。それでもひとたび、国内ツアーに戻れば、彼らそんなことは、ケロッと忘れたかのようになる。それは(世界との繋がりが、余りにも弱いからだ)。

岩田が挑むのは米ツアー。それだけでなく、例えばトーナメントの少ない夏期。若手はあらゆるコネを駆使。これら米欧の二部ツアーに出場したらいい。ショーンたちに混じって。

そこで腕を磨くことは、同時に世界に繋がる話題性にも、突き当たれることになる。その結果として、松山英樹や、テニスの錦織圭クラスの競技者が、新たに誕生する可能性に結び付く。

「力もないのに、メジャーを云々」と書いたが、この手法は日本男子が、海外を踏み台に出世する筋書き。日本人好み。充分な説得力がある。

007の名を貰った、名手ジャクリンの息子。彼のこれからの成長を見守る。大きな楽しみの一つだ。

(Sep.07.2015)

シャンペン・トニー。歴史に填まることの活力

0722151156aナニやら、張り子の虎と思わせる清宮幸太郎。ナニはともあれ、彼の登場で、終わったばかりの百年目の甲子園は、大変な盛り上がり。早実のOBでもある、王貞治さんが始球式。連日スタンドを埋めた観客は、歴史を満喫した。その代表は「清原、桑田、ゴジラ松井との比較」だった。

とは言え、清宮の登場は、数十年前の歴史を掘り起こし、野球ファンの関心を大きくした。

野球に匹敵する、長い歴史を有するスポーツの一つがゴルフ。日本オープンは約百年。それより前、全米オープンと全米アマチュア選手権。その開始は1895年。全英オープンに至っては、更に古く1860年(日本の年号だと安政7年)だそうである。

1213141256(1)この話は、その中での51年前。1964年に遡る。前の東京五輪の年のことだけに、当時日本でゴルフを知る大衆は、非常に少なかったはず。その年の全英オープンで優勝したのはトニー・レマ。愛称シャンペン・トニー。

優勝すると、シャンペーンで祝った。そこから付いたニックネーム。2位ニクラスに5打差を付けて優勝した、この年の全英オープンはセントアンドルーズ。プロ通算22勝。その勝利から2年後。この年の全米プロ選手権は、オハイオ州アクロンの、ファイアストンCC。実力、人気ともトップ級に躍り出ていたレマは引っ張りだこ。

オハイオ州の手前はイリノイ州。そこでのエキシビションの要請を受け、妻や関係者とチャーター機に乗る。その飛行機が、空港を目前に墜落。有望な才能は、32歳の若さで消えた。

0718152015私自身、ゴルフの仕事を始めて後、資料の中でトニー・レマ、シャンペン・トニーの名前は、何度も検索してきた。とは言え、そこ迄の存在だった。

フェースブックを始めて、私は3年が過ぎた。一年前の今頃、デビッド・レマと名乗る米国人から、トモダチのプロポーズが届いた。彼の略歴に感激した。彼こそが、あのシャンペン・トニーの、忘れ形見だったのである。

私に取っては、歴史の中でしか、接することの出来なかった先達。その人の体内に流れた、暖かい血筋。そこに到達できたのでは。そんな想いが走ったからだ。

息子デビッドの職業は、ミュージシャン。ゴルフも結構上手そう。性格的にはポジティブ。そんなことでこまめに、チャットを楽しんで居る。

0720151309ゴルフ同様、音楽の仲間も世界中に居る。この7月、デビッドはスコットランドを訪れた。半世紀前父親トニーが、シャンペーンで優勝を祝った、セントアンドルーズでの全英オープンを観戦。その後スコットランドの、音楽ゴルフ仲間と、オールドコースでのラウンドを楽しむ。それが目的であり、その時送ってきた写真がこれだ。「結構上手そう」どころか、高いフィニッシュの、力強いスイング。カエルの子は蛙を実感させられた。

他のモノは、一緒に送られてきた、父親トニーの資料写真。折角なので、同時に掲載し、読者の皆さんに、お楽しみ戴きたい。

前出甲子園同様、歴史が見えると、いま目の前で起こっている現象。その厚みが何倍にも増し、興味がおおきくなる。誰しも自分の生まれ育った、家系には関心がある。それと同じこととは、言えないだろうか。

0321151201スコットランドから帰国した後。デビッドはハワイでの、プロアマにも出場。その折り「遠からず、日本へも足を伸ばしたい」と、話していた。その折りは(可能なら)軽井沢ゴルフクラブで一緒にラウンド。ゴルフの歴史上、重要な役割を演じた、白洲次郎さんの話も、楽しみたいと思う。

(Aug.31.2015)

自閉症の妹を、笑顔で支える、22歳WR一位スピース

WeedenB0903-OSUmarketing 「でも彼らは、誰にも罪はないのですよ。囲りの人が、理解を」。

私たちゴルフ界の人間が、自閉症の三文字を、初めて身近に聞いたのは7年前。2008年3月のことだった。全英、全米オープンなど複数のメジャータイトルを獲得。競技者としては、世界的な大活躍。南アフリカ出身のアーニー・エルス。

38歳のこの時、彼は「自閉症は、語る」と書かれたロゴマークを、ゴルフバッグに付けて、トーナメントに登場している。ツアープロは或る種、イメージが重視されるビジネス。順風満帆だったエルス。この時6歳だったか。長男ベンの自閉症を公表したのだ。勇気が要ったに違いない。

ジョーダン・スピースは、米を代表する州、テキサス生まれの22歳。説明する迄もなく、今年4月、6月マスターズ、全米オープンを連取。「スワ、年間四冠か」と、世界のスポーツ界は騒然となった。尤も快進撃はそこで終わる。それでも全英オープンは、3人のプレーオフに1打差。最後の全米プロ。この時も、豪州のデイを、3打差にまで猛追しての2位だった。4つ全部は勝てなかった。だがそれで、も圧倒的な存在を示した。

そんなスピースに、神は微笑む。それ迄マキロイが92週維持していたWR(世界ランク)。22歳になったばかりのスピース。その頂点に、彼が立ったのだ。

この季節ゴルフは、半分オフ感覚。それに比べMLBは、いよいよ大詰め。そんなタイミングで、全英オープン優勝のザック・ジョンソンは、地元カブスの試合で初の始球式。結構興奮した様子。スピースと妹の写真が、仲間内に出回ったのは、そんな間合いだった。何のためらいもなく。それがこの写真だ。

長男ベンと、コースを歩くエルス(写真はエルス自身のモノ)

長男ベンと、コースを歩くエルス(写真はエルス自身のモノ)

日本のプロゴルフ。それは全体的に「稼いだカネは、オレのモノ」。海外の感覚。それは「稼いだカネは、皆なのモノ」。説明する迄もなく、米ツアーの賞金王はチャリティ基金。最初の積み立てが始まったのは1938年(昭和14年)。その通算が2008年には、1.2billion米ドルに達して居る。

その様な歴史の中、若いスピースも例外ではない。彼の収入を管理するファミリー基金。その一部は北テキサス(スピースが住む場所)プロゴルフ協会が委託され、諸々運用される。その中の一つは、高校生迄を対象にした奨学金制度。2年目の今年も、男女2人が選ばれ受賞している。米の大学教育は学資が高い。それだけに、これらの奨学金システムは、優秀な人材育成に結び付く。

スピースは、ダラスの高校時代から、ゴルファーとして、プロの試合(バイロン・ネルソン選手権)でも活躍。妹の自閉症の話は、その頃から、仲間内では囁かれていた。それが今年の、年間四冠への快走で、瞬く間に表面化した。テキサスを代表する、私たちの記者仲間は、女性のベテラン、メラニー・ハウザー。彼女も微笑んでいた。

妹の自閉症は、もう変に隠す必要も何でも、なくなっていたのだ。

(coutesy of Nicklaus Companies)

(coutesy of Nicklaus Companies)

2008年、エルスが長男の自閉症を公表した、ホンダクラシック。この週は今ニクラスと奥さんバーバラ。2人も参加して、病と闘う子供達と遊び、基金集めを呼び掛けている。奥さんバーバラは、今年米国ゴルフ協会最高の名誉、ボブ・ジョーンズ賞を贈られた。それはゴルフを通し、多大なフィランスロピー活動に対してだった。

形の違う社会奉仕。ミケルソンの住むサンディエゴ。周囲は貧困なヒスパニックが多数。米は間もなく新学期。それを前に、ここ十年近所の子供約千人をマーケットに招待。新学期に必要な、文具、ウエア、靴などを買い与える。その間ミケルソン夫婦は、ズッと会場に留まる。

自閉症から社会の貧困まで。誰にも罪はない。それだけに周囲の人間が、理解を示すことの大切さ。スピースと妹に限らず、多くの例が、教えてくれる。

(Aug.24.2015)