ペブルビーチを連破。Pacific Dunes再度人気一位に

ザ・プレーヤーズの舞台、TPCソウグラスを筆頭に、ピート・ダイ設計のコースも、負けず劣らず人気だ。左は筆者

ザ・プレーヤーズの舞台、TPCソウグラスを筆頭に、ピート・ダイ設計のコースも、負けず劣らず人気だ。左は筆者

約1万7千のゴルフ場がある米国は、パブリックコース天国でもある。その多くは二、三十ドルで遊べる市営、郡営(時に州営)の施設。それに薄暮や学割、高齢者割引が加わるから、料金はドンドン安くなる。

一方で企業が持つパブリックコース。これは値が張る。最も高額なのはペブルビーチ。シーズンによって多少の違いはある。それでも495ドルから530ドル。ここの強みはアウティング(企業ぐるみのコンペ)が、一年先まで埋まっている人気。多くの場合は高額のロッジに宿泊。そして翌日ゴルフを楽しむ。超リッチな気分になれる。更にあのロゴの、マーチャンダイズが、年間12億円以上捌ける。圧倒的な存在だ。

これに続くのが5百ドル。これらは共にラスベガスのコース。シャドークリークと、ウイン・ラスベガス。料金はともに5百ドル。設計者は双方ともトム・ファジオ。さらにザ・プレーヤーズの舞台TPCソウグラス。ここは米ツアーの本拠地としても知られる。495ドル(夏のオフシーズンは300ドル)。6月の全米オープンで、日本での認知度が、急騰したパインハーストNo.2。ここが450ドル(夏期は370ドル)で続く。

太平洋北西部とは、加州の北に位置する、オレゴンとワシントン両州。ついこの間まで、ゴルフで注目されることはなかった。とは言え、加州の北だから、沖を流れるのは寒流。加えて海岸線は、ずっと砂地デューンズ。条件としてはゴルフの歴史を持つ、スコットランドや、アイルランドに、似た素材を揃える。

オレゴン州バンドンは、そんな中でもゴルフ場に最適の立地。そこで2001年に開場した新設が、パシフィック・デューンズ(Pacific Dunes)。設計者は、玄人好みのコースを造るトム・ドーク。SI(スポーツイラストレーテッド誌。編集責任はジョー・パソブ記者)が2年に一度実施する、それらパブリックコースのアクセス・ランキング。そこで僅差ながら、再度ペブルビーチを下し、今年一位を守った。

ちなみに二度連続2位はペブルビーチ。有料道路17マイルドライブが走る、超高級宅地。その白波砕ける海岸線に、サイプレスポイントに並んでの立地。そんなことで、日本人にも超の字の付く人気。一方で2010年全米オープン。この時は「舞台がペブルビーチ」と言う理由で、予選のエントリー数が、史上最多を更新している。またこの2年で、9番、10番のフェアウエイを、より海側に近付ける等の、緻密な改造も重ねてきた。何処から見ても、大衆ゴルファー憧れのコース。そのペブルビーチを、またしても破ったのが、パシフィック・デューンズだった。

ゴルフでは、よく「日本の常識は、世界の非常識」と言われる。代表的なのが、ゴルフ場の名称。日本の場合、その多くが、いわゆるカントリークラブ。実はこの名称、緑したたる田舎に、ゴルフ、乗馬、テニス、水泳(英国だとこれに狐狩りの森が加わる。全米オープンの1898年の開催コースは、そんな伝統を引き継いだMyopia Hunt(狩猟) Clubマサチューセッツ州だった)を揃えた施設。

もう一つの位置付け。多くのカントリークラブは、それとは別に、街中にシティクラブを所有。週日はそこを拠点に活動。その疲れを癒やす。その目的で週末、家族と過ごす場所。それがカントリークラブ。当然メンバーと、そのゲストに限定される。それに比べ日本のカントリークラブ。これは大多数が、メンバーと一緒でなくとも、ラウンドが可能な、パブリックオープン。「このゴルフ場は、予約できません」と堂々謳っているゴルフ場は、日本では恐らく軽井沢ゴルフ倶楽部くらいなモノ。

それに比べ、例えば米国は、カントリークラブで、顔も知らないビジターが、メンバーに同伴されることなく、プレーすることは不可能。もっと言えば、コースの敷地内にさえ入れない。それがカントリークラブの姿勢でありシステム。要するに「Private Only」または「Members Only」。それがクラブなのだ。海外の。

繰り返すが米国の場合、約1万7千コースの6割以上が、パブリック・オープンしている。パブリック・コースの別な説明は「Daily fee course」。日々の入場者。その支払いでコースの、維持運営を賄うシステム。勿論それを大別すると、前述したように、公営と企業所有の、2つのパブリックに分かれる。日本人が漠然と描く「米のパブリックコースは廉価」の印象。それは多くの場合、公営のパブリックコースの話になる。

その料金システムがあるから、米でゴルフは「郵便配達夫から、大統領迄が楽しむ、大衆のスポーツ」としての認識に、大きな根が生えているのだ。

其れが理由で、例えばオーガスタ・ナショナルGCは、メンバーとゲスト以外、ゲートさえ通過できない。だが心配無用。大衆が憧れる多くの有名コースが、そんなことで「Daily fee course」として、一般消費者のプレーを可能にしている。要するに誰でもプレー出来るコースが、全米に点在する。それらはパシフィック・デューンズと、ペブルビーチだけに留まらない。ニューヨークのベスページ(ブラック)。アリゾナのトルーン及びトルーン・ノース。ヒルトンヘッドの名勝ハーバータウンGC(サウスカロライナ)迄。

私の何人もの友人。彼らは新婚旅行の途中。これらのコースで、思い出のゴルフを、満喫している。ゴルフ場側も、それを祝福する。海外のゴルフとは、そこ迄の幅の広さがある。それを可能にしているのは、繰り返すが、多くの有名Daily fee courseの存在なのだ。

パシフィック・デューンズの料金は295ドル(冬期は75ドル)。ペブルビーチに比べたら半額に近い。歴史そして施設の違いからしたら、当然の値段の差。それでも僅か十数年の、新参パシフィック・デューンズが、一位を死守した結果は、評価されるべきだ。

余談だが、世界、そして全米のコースランキング(トップ百)で、ここ数十年、首位を保つのがパインバレー。ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外。ここはマスターズの会場、オーガスタ・ナショナルGCに並ぶ、プライベートクラブの雄。コースとして、それに匹敵するのがペブルビーチ。その牙城を揺るがす、新設コースが登場した。海外のゴルフに対する認識。そして設計者の能力は、どんどん進化している。

元プロ野球選手が、他の種目で奨学生。米大学スポーツの柔軟性

好カードには、一試合で10万人の観客が、熱狂する米のカレッジフットボール。そこで実績を積んだウイーデンは、28歳で卒業。そして念願のNFL入りを果たした

好カードには、一試合で10万人の観客が、熱狂する米のカレッジフットボール。そこで実績を積んだウイーデンは、28歳で卒業。そして念願のNFL入りを果たした

マイナーとは言え、ヤンキース、そしてドジャースのマウンドに立った。そのプロ野球経験者が、奨学金を得て、他の種目で、大学で活躍する。日本では、まず見られぬこと。

何故この話を書くかと言えば、日本に同じ道を、歩むべき26歳がいるからだ。斎藤佑樹。彼が甲子園で優勝した8年前から、私の見解は変わらない。「斎藤はプロでは通用しない」。詳細の説明は、後回しにする。

日本ハムの斎藤。彼が甲子園で優勝。ハンカチ王子と持て囃された。その時から私は、終始一貫。「斎藤くん、キミは野球より、ゴルフに向いている」と書いてきた。

あの人気がなければ、昨シーズン終了後、解雇通知を受けて、不思議でない成績だった。だがそれは、プロ入り前から、予測されたこと。それより何より、彼がゴルフに転ずれば、野球の何倍もの、好成績を残せる可能性。ただし、それには条件がある。それは米の施設で米の指導を受ける。それを短期集中して行うこと。その最短距離は米に留学。ゴルフ部に入ることだ。

それに対し「26歳。年齢的に遅い」との声が聞こえる。

心配は無用。米のカレッジ・スポーツのシステムは、二十代半ばのプロ野球経験者を、受け入れてくれる。懐の深さを持っている。長くなるので、斎藤の話はここ迄にし、最近の成功例を記述したい。

OSU(オクラホマ州立大)は、全米学生選手権10度優勝。カレッジゴルフ界の雄。キャンパス近くに「男女ゴルフ部員のためのゴルフ場」カーステン・クリークを持つ。設計はトム・ファジオ。ここ長いこと、オーガスタ・ナショナルGCの、改造を任されている実力者。

ウイーデンと同時期、OSUの顔として注目された、ピーター・ユーライン。既にプロ転向し、現在は欧州ツアー中心に活動している。なお今朝バークレイズで、逆転優勝したハンター・メイハン。彼もOSUの卒業生

ウイーデンと同時期、OSUの顔として注目された、ピーター・ユーライン。既にプロ転向し、現在は欧州ツアー中心に活動している。なお今朝バークレイズで、逆転優勝したハンター・メイハン。彼もOSUの卒業生(These photos courtesy of Oklahoma State Univ.)

ゴルフ部員ではなかった。だが数年前まで、そのOSUフットボール部のエースQB(クオーターバック)。それがブランドン・ウイーデンだった。何しろ大学に入ったのが二十代半ば。既に結婚もしていた。何故それ程遅く? 理由は簡単。高校卒業後投手として、ヤンキースと契約。その後ドジャース他へトレード。その間に、投手の生命、肩を痛め野球を断念した。

米では野球の投手が、秋から冬に掛け、フットボールのQB。二足の草鞋を履くケースは多い。ただしQBでの投球数は、野球ほど多くない。それがOSUに入学した、一つのカギだった。

OSUの4年間。ウイーデンはチームの要QBでOSUを、シーズン終盤まで、優勝争いに導く。そして其処に待っていたのは、NFLでのドラフトだった。野球のMLBも人気がある。だがフットボールは米の国技。秋の感謝祭休日。家族が集まった時、芝のある自宅の庭で、父と息子が楽しむのがフットボール。肩を痛めたことで、一度は諦めたプロのスポーツ稼業。それをフットボールで、再度実現できた。ウイーデンにとっては、有頂天になっていい状況だった。ドラフトされたのは、クリーブランドに本拠を置く古豪ブラウンズ。当然のことながら、一年目から先発を任された。

ロックフェラーやカーネギーが、為し得たのもアメリカン・ドリームだった。同じように二十代の青年が、僅かな期間に、2つのスポーツでプロとして活動する。これも紛れもなく、アメリカン・ドリーム。それを可能にするのが、柔軟性ある米のシステムなのだ。何と融通が利くことか。そのウイーデン、秀でていたのは、野球とフットボールだけではなかった。

トーナメントで、キャディは唯一の味方。そんなことで、米の大学監督は、成長過程の教え子を、この様な形でプロ転向後も指導を続ける。左がマイク・ホルダー。指導に於ける、彼らの木目の細かさは、圧倒的だ

マイク・ホルダー。石川遼が15歳で初優勝した時。「高校卒業後、関心あるなら、是非米の大学へ留学を」と勧めてくれた私の旧知。彼が笑みを浮かべ説明する。

「時に神は不公平だと思うことがある。それは一人の若者に、幾つもの才能を与えること」。現在OSU体育局長のホルダー。彼はゴルフ部監督時代。NCAAで8度の優勝を残している。彼こそが、カレッジゴルフ界の、指導者の帝王なのだ。そのホルダーが、べた褒めするウイーデン。彼は野球、フットボールだけでなく、ゴルフでもOSUゴルフ部員と、互角にプレーする才能だった。

彼がOSUにいた頃、ゴルフ部のエースは、ピーター・ユーライン。アマチュアの世界ランク一位。学生時代マスターズに招待された。何処から観ても、サラブレッド。また彼の父親はアクシュネット社(タイトリストとフットジョイ)の社長。プロV1ボールを、開発したのも彼の父ウォーリーだった。その才能と、ウイーデンはゴルフでも、互角に近い勝負をしていた。そんなアスリートを育成する。それを可能にするのが、米カレッジのスポーツシステムなのだ。

何とかクビは繋がった、ハンカチ王子。だが二軍でも打たれる最近の球威では、先はない。

それより、野球をすぱっと諦める。そしてグローブを置いて渡米する。OSUでも、何処でも相手にしてくれる。其処で一年遣れば、可能性が見える。何しろ米には、自分たちのゴルフ場を持つ、カレッジが全国に点在するのだから。そして6年先。2020東京五輪。斎藤がゴルフで、日本代表になる。何と夢のある話か。

2006年夏。私は西東京の決勝戦を、ジャンボ尾崎の家で、彼と一緒にテレビ観戦していた。日大三高との接戦。相次ぐピンチでの粘り強さと、前さばきの巧みさに、2人して笑みを浮かべた。ゴルフは攻撃の一方で防御のスポーツ。それだけに斎藤の性格は、野球よりゴルフなのだ。その印象は大きかった。甲子園で田中将大に投げ勝った時、だから逆に「この坊やは、野球よりゴルフに向いている」と直感した。

そして今、その通りに進展している。座して解雇通告を待つのは時間の問題。それよりスパッと切り換え、渡米してゴルフに転じる。野球だと30歳過ぎれば、引退を考慮する。同じ年齢でゴルフは、「これから」なのだ。

6年後には東京五輪。斎藤の才能なら、その代表になることも可能。それを教えているのが、28歳でプロフットボールNFLの球団に、ドラフトされた。ウイーデンの成功例。そしてそれを支える、米カレッジのスポーツ育成プログラムなのだ。

(Aug.25.2014)

堂々たる敗者になる。その覚悟が出来ている者は強い

 敗者が、勝者より輝くシーンを、海外の取材では繰り返し、見せ付けられる。文中にもあるが、この2人(左がペイン、右がジャンセン)も、敗者ペインの方が、主役然としていた。スポーツはショービジネス。観客はクライマックスでの、彼らの役所に熱狂するのだ

敗者が、勝者より輝くシーンを、海外の取材では繰り返し、見せ付けられる。文中にもあるが、この2人(左がペイン、右がジャンセン)も、敗者ペインの方が、主役然としていた。スポーツはショービジネス。観客はクライマックスでの、彼らの役所に熱狂するのだ

勝負事に関する、日本人の受け止め。それは「勝てば官軍、負ければ…」。

それに対し英語圏ではGood Loserなる表現が、一般に浸透している。堂々たる敗者、である。

ここに添付した写真。これは1993年の全米オープン。場所は東部ニュージャージー州のバルタスロル。旧知ペイン・スチュアートが、格下のリー・ジャンセンに競り負けた。その敗者が、この様な暖かい眼差しで、勝者を祝福している。僅か数分前まで、ナショナル・オープン選手権で、凌ぎを削った者同士。

それから5年後の1998年。場所は加州のオリンピック・クラブ。偶然とは重なるもの。この時もペインは、ジャンセンの後塵を拝した。ただし、この時もペインの、敗者としての態度は、実に堂々たるものだった。まさにグッド・ルーザーだった。

私たち物書きも、所詮は人の子。取材上の付き合いで、関係が深くもなり、浅くもなる。その条件の一つが、親から受けた彼らの教育と、それに伴う知性かも知れない。

例えば日本人プロの場合、負けたらブンムクレ。口を利こうとしない者もいる。高々一つの負けが、どうしたと言うのだ、と言いたい。

1987年、ミュアフィールドの全英オープン。この週は例年になく寒かった。持参した物だけでは足りず、新たに購入したカシミアと、ウインドブレーカーを、それぞれ2枚重ね着したほど。この時第二ラウンド以降、首位を走ったのは、初出場の米若手、ポール・エイジンガー。南国フロリダ出身ながら寒風にめげず。だが最終日17,18番の連続ボギーで、ファルドの逆転を許す。ちなみに最終日のファルドは、18ホール全部パー。強風雨の中、英国人らしい手堅さ。またそれは、1969年トニー・ジャクリン以来の、英国人の優勝。喜んだ地元ファンが、エイジンガーのボギーに、拍手を送る失態。それを主催のR&Aが、公式に詫びる。そんなこともあった。

記者会見には、勝者も敗者も呼ばれる。女房と壇上に現れ、顔見知りの我々に、手を振り愛想を振りまくファルド。一方のエイジンガーは、大詰めで大魚を逃した悔しさが、脳裏から離れない。思い詰めた表情。それでもシビアな質問が、矢継ぎ早に飛び、それにしっかり答える。そして最後に同じ台詞を、小声で2度繰り返した。それは「これが、この世の終わりではない」だった。自分に言い聞かせるように。この時エイジンガー27歳。

勝負の世界の非情さ。翌年の8月、私は同じ台詞を、もう一度聞くことになる。この年の全米プロ選手権は、オクラホマ州のオークツリー。ピート・ダイ設計の人気コース。この時もエイジンガーは36,そして54ホールをリードした。それでも一年前の、全英オープンの不運が再現される。日曜日小柄なジェフ・スルーマンが、バーディ、イーグルの猛ダッシュで65。掌中に収めつつあった、メジャーの勲章は、またしてもエイジンガーの手から、こぼれ落ちた。この時も彼は、同じ台詞を吐き、自分自身を鼓舞した。それが「これが、この世の終わりではない」だった。

まさに「この世の、終わりではなかった」ことを、証明できる時が来る。1993年の全米プロ。舞台はオハイオ州のインバーネス。この時272で並んだ2人が、プレーオフに入る。エイジンガーが倒した相手はグレッグ・ノーマン。彼は「この世の終わりでないことを」三度目にして証明して見せたことになる。グッド・ルーザーを繰り返した末の勝利。それだけに、この時のエイジンガーは、堂々胸を張った。

2週前の全米プロ選手権。既に報道されているが、最終日の終盤は、薄暗かった。豪雨による中断の影響だった。最終組は首位を走るマキロイ。その前の組が、数打差で追うミケルソンとファウラー。最終ホールはイーグルもあるパー5。それぞれに勝敗は、最後の最後まで判らない状況。何れにしろ後ろの組は、その分だけ不利になる。暗さが増すからだ。

また「競技続行が不可能」となれば、コースには中断の笛が響く。一晩寝れば、翌日の僅か一ホールでも、筋書きが変わる可能性。ただしその前に、ティショットを済ませれば、そのホールは終了出来る。それらを考慮し、前の組の2人は18番。ティショットばかりか、グリーンを狙うショットも、自分たちが終了する前に、マキロイ達に打たせた。臨機応変のその処置もあり、マキロイは18番パー。7月の全英に続き、メジャー2連勝する。そして優勝スピーチで、ミケルソン、ファウラーのスポーツマンシップに、繰り返し感謝した。

そのとき日本のマスコミの一部には「さすが紳士のスポーツ、ゴルフ」との表現があった。ゴルフには審判がいない、と言う特殊性がある。各競技者が、それぞれにフェアな判断をする。

その根底にあるのは、スポーツマンシップ。さらに相手を思い遣る、ジェントルマンシップ。これがある限り、それぞれ紳士的に振る舞う。だからそれは、ゴルフだけの特徴ではない。ラグビーなど他のスポーツにも、それは当て嵌まる。終了の笛が鳴れば、ノーサイド。そして相手の健闘を讃え合う。それがスポーツ全般の、精神なのだ。

ミケルソンとファウラーが、後続のマキロイ達に示した配慮は、だから彼らにとっては、 (彼らを有利にすることを覚悟した)当然の判断だったし、ゴルフだけの限られたモノではなかったはず。

話は戻って、ペイン・スチュアート。彼はジャンセンに、二度苦杯を舐めさせれた。それでも1999年。パインハーストNo.2で、全米オープンのトロフィーを抱いた。二度に渡るグッド・ルーザーの過去があっただけに、その勝利は鮮やかに輝いた。

それにつけても、私が納得しない用語がある。それは「国内メジャー」。

今年の全米オープン。36ホール終了時の、最下位2人は日本人プロ。それも160(79と81。もう一人は2日間とも80)を打って。さらに土曜日。別の日本人プロが88を打った。全米オープンの舞台で。日本で乱用されている「国内メジャー」とは、この程度のプロが中心になる競技。それを「メジャー」と呼ぶことは、余りに恐れ多い。畏敬の念がなさ過ぎる。いや名称の上げ底を止めることで、日本人プロは、もっと海外で好成績を残せる可能性を、引き出せることになる。

本物のメジャーで160も88も打つプロは惨めなだけ。グッド・ルーザーとは言えないからだ。

その全米プロ選手権。タイガー不在の週末も、テレビの視聴率は高かった。マキロイの強さもあった。残された時間の短い44歳、ミケルソンの粘りも視聴者の心を打った。そこに加わった、グッド・ルーザーの爽やかさ。それもテレビ視聴者の、心を捉えたに違いない。

暗闇の中での表彰式。そこでマキロイが繰り返した、ミケルソン、ファウラーへの謝意。当たり前の行為とは言え、良いシーンは多くの人を魅了。歴史にも残ることになる。

(Aug.18.2914)

ライダーカップ、キャプテンTom Watsonの苦悩

 これは20世紀最後のライダーカップ。場所はマサチューセッツ州のザ・カントリークラブ。勝利を喜ぶ、ジム・フューリックと、彼のキャディ、フラッフことマイク・コーワン。チームで戦うことで、ライダーカップには、通常の競技では見られない、重圧が溢れる

これは20世紀最後のライダーカップ。場所はマサチューセッツ州のザ・カントリークラブ。勝利を喜ぶ、ジム・フューリックと、彼のキャディ、フラッフことマイク・コーワン。チームで戦うことで、ライダーカップには、通常の競技では見られない、重圧が溢れる

年齢的に微妙な立場の2人。タイガーとミケルソン。この2人の処遇を、どうするか。ライダーカップの米キャプテン、ワトソンはここ数ヶ月、難しい選択に直面して来た。

国旗を背に、国と個人の名誉を賭けた、ゴルフの戦い。それがライダーカップ。最終日の、劇的大逆転があった二年前。最近はテレビ観戦できることで、日本にもファンは急増している。とは言え、サッカーW杯決勝の熱気。それが3日間。ゴルフ場で続けられる、あの雰囲気を、日本のテレビで百%理解することは困難だ。

二年前の舞台は、シカゴの有名コース、メダイナ。剣が峰からの最終日。欧州はマキロイ、ローズ、ドナルド達が、最初の5マッチを連取。瞬く間に、形勢を逆転した。その前2010年。そして2006年も、欧州が勝利している。従って過去4回で、米が勝ったライダーカップは、2008年(米バルハラ)一度だけ。要するに、米はこのところ、欧州で連敗中なのだ。そして今年9月最終週。その舞台も欧州。スコットランドの、グレンイーグルス。

最近の力関係。その中でも、特に欧州で開催される時に勝てない米。その悪い流れを断ち切る。その目的で二度目のキャプテンに任命された。それがベテランのトム・ワトソンだった。

然しワトソンには、難問が立ちはだかって来た。それも2つ。

まずタイガー。彼は3月31日腰にメスを入れた。そしてマスターズ、全米オープンを欠場。それでもワトソンは、キャプテンとして「タイガーが順調に復調すれば、彼をライダーカップの代表に加えない手はない」と自信満々だった。

そして迎えた7月の全英オープン。第二ラウンドで、僅かに片鱗を見せはした。だが終わってみれば69位。その後もWGCブリヂストン棄権。終わったばかりの全米プロは、36ホールでカット。タイガーの順調な復帰を、待っていたワトソンの期待は、打ち砕かれた。

ライダーカップの別名は、キャプテンのゲーム。要するにキャプテンの采配次第で、勝敗が決まる、と言われる。

そのキャプテンの前に、辞退を仄めかしたのが、もう一人の看板、ミケルソンだった。

数週前「いまの僕のゴルフでは、代表に相応しくないのでは」と言い出したのだ。アマチュア時代から、長く取材している。ミケルソンには裏表がない。だから多くに好かれる。彼の笑みは(百万ドルのスマイル)。それだけに正直。

6月の全米オープン。それに勝てば、史上6人目の、生涯グランドスラム。パインハーストNo.2は熱狂した。然し一度も優勝争いに絡めず。そればかりか、WBCブリヂストン迄(信じ難いことに)、今季トップ10フィニッシュがなかった。責任感は人一倍強い男。出場に疑問を持って当然だった。

そんな折り、新しい見解が、ワトソンの判断を複雑にした。それはニクラスの発言だ。プロとしてのメジャータイトルは最多の18箇。1977年のライダーカップ。その他プレジデンツカップでも、数度キャプテンを務めた、ゴルフ界の大御所。

彼が「それでも米チームは、タイガーを選ぶべき」と強調したのだ。過去百年を代表する3人。それはボビー・ジョーンズ、ニクラス、そしてタイガー。これは紛れもない事実。全米アマV3を引っ提げてプロ転向した当時から、タイガーはコンスタントに、ゴルフ界の象徴だった。ケガは誰にでもある。それを乗り越えたいま、何はともあれ、タイガーをチームに加えることの重要さ。帝王ニクラスが、言わんとしていることは、それだった。

ライダーカップの代表決定は、米欧両チームとも、今朝終わった全米プロ選手権(ケンタッキー州バルハラ)を受けて行われる。上位9人はポイント。最後の数人は、いわゆるワイルドカード。キャプテンの推薦になる。

米のライダーカップ得点ランク。8月4日の時点で、上位はバッバ・ワトソン、フューリック、ウオーカー、そしてファウラーが4位で付けている。44歳フューリックを除けば、経験者は少ない。

そんな中ミケルソンは11位。タイガーはトップ25位にも入っていない。4ヶ月半で4試合では、タイガーには仕方ないこと。だが、それでも米チームは、タイガーの存在が必要との意見。相手を威圧するためにも。

陣立てに苦慮していたワトソン。彼を救ったのはミケルソン。最終日勝者マキロイを追い上げ、全米プロ選手権で2位に入ったこと。2位は満足する成績ではない。それでもレフティの今季初トップ10は、ワトソンにとって、何よりの追い風。タイガーの不調を補って、余りある嬉しい情報だったはずだ。

同時に若手の多い米チーム。それをまとめ牽引する役として、ミケルソンの(経験という力)が、改めて見直されることになる。

ワトソンが最初に務めたキャプテン。それは1993年のこと。場所はイングランド。この時は拮抗した戦力ながら、ワトソンの米チームは、15対13で勝利。キャプテンの采配が光った。そして二度目の登場で、再度の勝利。その十字架を背負わされたワトソン。彼のキャプテン推薦選手が誰になるか。注目される。

(Aug.11.2014)

蒸し風呂状態のリスク。6年先五輪ゴルフは、大丈夫なのか

 今朝終わった米ツアーでも、逆転優勝したマキロイ。この先暫く、彼の王座は動かない。ただし2020年東京五輪では、彼の前に高温多湿と言う、初めての敵が立ちはだかる(Photo courtesy of GlobalGolf Post)

今朝終わった米ツアーでも、逆転優勝したマキロイ。この先暫く、彼の王座は動かない。ただし2020年東京五輪では、彼の前に高温多湿と言う、初めての敵が立ちはだかる(Photo courtesy of GlobalGolf Post)

6年先のこの時期。日本では東京五輪が、開催されているはず。

期日は7月24日から8月9日まで。米欧からの、テレビ放映権料に依存するIOCは、この時期を動かさない。そうなると、ゴルフは開催が、頗る困難になる。2つの理由がある。

かつて台風と言えば二百十日。9月以降が定番だった。それが昨今8月を通り越し、7月にも発生する。それも結構大型が。期日的には10月だった。とは言え昨年、台風に直撃された日本オープン(茨城GC)は日曜日が中止。最終ラウンドは、月曜日に順延された。その台風が、五輪を直撃する可能性。

それよりもっと深刻なのが7、8月の猛烈な暑さ。当初の予報では、今夏は冷夏だった。ところが梅雨が明けると、連日の真夏日、そして猛暑日。マスコミは「日常生活さえ、異常を来す」との声を連日伝える。その下で競技をする。これでは選手も、間違いなく難儀する。

そこで参考になるのが、陸上マラソン。遠く1984年ロス五輪では、スイス代表の女子選手が、夢遊病者の様な足取りでゴールした。その時の彼女のコメント。「加州のような、蒸し暑さに慣れていなかったので」。

そのロサンゼルス。私は昔、暫く住んだことがある。1月末から2月に掛けての数週が雨期。残り10ヶ月以上、雨の降らない乾期が続く南加州。暑いと言えば暑い。だがアジアモンスーン地帯の、日本と比較したら天と地。遙かに凌ぎやすい。それは湿度の違い。そのロス五輪でもマラソン、特に女子は何人もが棄権。残りもフラフラ状態が、テレビに映し出された。

マラソンの場合、早朝暗いうちのスタート(北京は朝7時半だった)することが可能。さらに競技時間は、男子で2時間余。女子でも2時間半前後。そこで比較されるのがゴルフ競技。世界を旅した旧知、ゲイリー・プレーヤーに言わせると「スコットランド人は速い。18ホールを3時間を切るペースで回る」。だが一般的に、18ホールの所要は4時間。マラソンの約二倍。それが本戦だけでも4日間。練習ラウンドを入れると5日間競技する必要。

それだけではない。ゴルフは(涼しさを求め)早朝暗いうちに、スタートすることが不可能。何故ならボールが見えないことには、勝負にならないからだ。従って炎天下。それも4時間。

私が長いこと本拠地にして来たアリゾナ。ここは半砂漠地帯だから暑い。全米オープンの取材から戻る、6月から9月まで。この頃は連日摂氏で、50度近くに達する。私が体験した最高は、華氏で113度。摂氏にすると52~53度はあったはず。日本の最高気温41度(昨年の高知県)より10度以上の高温。ただし救いがある。湿度が圧倒的に低いことだ。発汗作用は活発。だがかいた汗は、瞬時にして消える。だからシャツも手袋も、濡れる間がない。それでも真夏のゴルフ。多くが日中を避け、早朝または午後遅くスタートする。

ただしこれは、私たち素人ゴルフだから可能なこと。五輪のゴルフ競技を、薄暮で行うことは出来まい。さらに厄介なこと。それは会場に予定されている、霞ヶ関CCの立地だ。

この時期、高温で話題になる地域が多数ある。前述高知の他、岐阜県の一部。そして埼玉の北西部から、群馬の館林に掛けた辺り。霞ヶ関CCはそのエリアに、すっぽり入る。私はこの辺りを、”日本の熱帯地方”と名付けている。

昨年9月。ブエノスアイレスでのIOC決定。それを受け米のブルーンバーグも、五輪の関連記事を流している。

「(高温だけでなく)高い湿度は、体感温度をさらに引き上げる。先月(2013年8月)東京の最高気温が、38度を記録した時。全国で10人以上が熱中症で死亡。数千人が入院した」。

この時ブルーンバーグが危惧したこと。それはマラソンを中心とした屋外競技。ただしその中で、ゴルフは特定されていない。それでもそれは、ブルーンバーグだけが鳴らす警鐘ではない。米のジャーナル・オブ・サイエンスは、さらに歴史を遡って解説する。

「気温38度。もしくはそれ以上の中で、五輪が実施されれば、少なくとも過去120年で、最も暑い環境下での、開催となる可能性」。

さらに付け加える。

「過去最も高い気温の中で行われた五輪。それは1900年のパリ。マラソンは、35~39度の間で開催され、半数以上が暑さにより、途中で落伍した」と指摘。とは言え、同じ気温でも、欧州と日本では、湿度が決定的に違う。

これらの情報を得て、英フラバー大で、環境生理学と人間工学を研究するジョージ・ハベニス教授は「この様な環境でのイベントは、賢いとは思えない」とコメント。

これ迄何度も東京を訪れ、日本の夏を知るだけに「観客の被るリスクも高まる」との指摘も忘れていない。

ただしここ迄、彼らの対象は屋外競技全体。そして象徴としてのマラソン。だがマラソン以上に、高温多湿の蒸し風呂状態に、苦しむのは、紛れもなくゴルフなのだ。

 キリマンジャロの雪が消える。1952年ヘミングウエイの作品「キリマンジャロの雪」が、ハリウッドで映画化された。その時は真っ白い雪に覆われていた、アフリカの最高峰。いまはこの状態だ。

キリマンジャロの雪が消える。1952年ヘミングウエイの作品「キリマンジャロの雪」が、ハリウッドで映画化された。その時は真っ白い雪に覆われていた、アフリカの最高峰。いまはこの状態だ。

 世界中の山岳氷河が、消えつつある現場。(何れも元米副大統領アル・ゴアの著書「不都合な真実」。英語名An Inconvenient Truthから)

世界中の山岳氷河が、消えつつある現場。(何れも元米副大統領アル・ゴアの著書「不都合な真実」。英語名An Inconvenient Truthから)

説明が重複するが、一日のラウンドに要する時間は4時間。これはマラソンの2倍。練習日を入れると、その長時間を5日は過ごす必要。体力の消耗は、計り知れない。例えば、数週前のこのコラムで、東京五輪の金メダル候補として挙げたマキロイ。彼にしても、夏も涼しい北アイルランドの生まれ育ち。プロになった現在も、アジアモンスーン地帯で、真夏の競技は経験がないはず。そうなると、マキロイにも弱点が現れる。それが高温多湿との戦い。それ以上の心配。それは霞ヶ関CC周辺の”日本の熱帯地方”に恐れを成し、メダル候補が直前になって、相次ぎ来日を拒否することだ。

2004年のアテネ。高温だったが湿度は、東京と比較にならなかった。それでも女子マラソンの金メダリスト、野口みずきは、ゴール後嘔吐したと、当時の新聞が伝えていた。

余談だが、この夏も北極海の氷塊。グリーンランドやヒマラヤの氷河は、着実に解けている。その先に見える光景。それはアル・ゴアが著書「不都合な真実」で予測したこと。その一つは、海面の上昇だ。それも5~6メートルの規模で。これらは何れも、地球温暖化と言う共通項で、繋がっている。

6年先の東京。ハベニス教授の言葉にある観客。五輪ともなれば、当然数万枚の切符が、捌ける可能性がある。その時競技者ばかりか、観客にも心配される熱中症被害。

2020年夏。この高温多湿が、急に収束することは、常識的に考えられない。マラソン以上に、五輪ゴルフ競技の、前に立ちはだかる壁。それは予測できない、大きさなのだ。

(Aug.04.2014)

子供をプロにする近道、米大学の夏キャンプへの参加

ゴルフ好きな父親にとって、大きな希望があるとしたら、それは子供が、ゴルフのプロになること。

そんな夢への近道がある。それは夏の間、全米各地の大学ゴルフ部が実施する、夏のゴルフキャンプへの参加だ。

最も人気のあるキャンプ。その一つはASU(アリゾナ州立大)の、サンデビル・ゴルフキャンプ。

何しろ此処は条件に恵まれている。人気者ミケルソンの出身校。キャンパス内に自分たちのゴルフ場(カーステン・ゴルフコース)がある。ピート・ダイ設計の、堂々たる18ホールだ。それだけではない。手前と奥、双方にティグラウンドを持つ、全長三百数十ヤードの、広大な練習場もある。更なる好条件。それはフェニックスの空港(スカイハーバー)から至近なこと。

対象は中高校生(12歳から18歳迄)。ここで一夏に、数度のキャンプを実施する。期間は3泊4日が基本。その間に技術の習得向上は勿論。将来カレッジに進む上で、奨学金を得るためのノウハウ。そこまで指導する。そして夕食後は、ゲストを招いての講話。私もアリゾナに滞在している時は、その都度ゲストスピーカーを、引き受けてきた。

奨学金を得るノウハウ。これに関しては、子供たち以上に、親御さんにとって切実な部分になる。4年間学資を全額払うか。それともゴルフが上手いことで、それが免除されるか。大きな違いがあるからだ。

一日の日程は6時半起床。10時消灯。午前中に技術の指導。午後ラウンドレッスンで、コースマネジメント他を指導。昼食はバーベキュー。宿泊は大学のdormitory寮。米の夏休みは概ね三ヶ月。その間寮は空いている。空港への送迎は、ゴルフ部のバスで行える。それが空港に近いことの利点。

最近女子高校生の台頭が著しい日本。その日本で、子供をゴルフのプロにする。それに要する経費は、他のスポーツとは比較にならない。かつては「5千万から8千万円」と言われた。

プロの深堀圭一郎。彼の父親のインタビューをしたことがある。彼が実に興味深い話をしてくれた。

「息子が大学医学部で学んだ場合。もしかして一億以上の学費が必要かも知れない。同じことではないでしょうか」。

子を持つ親にとっては、医者もゴルフのプロも、同じく大切な将来選択。

高校生に、パッティングの指導をする、ASU助監督時代のミッキー。米には、ゴルフ場を所有する大学が、全国に点在する。そこでキャンプを実施できる。圧倒的に有利だ

高校生に、パッティングの指導をする、ASU助監督時代のミッキー。米には、ゴルフ場を所有する大学が、全国に点在する。そこでキャンプを実施できる。圧倒的に有利だ

この写真は、かつてASUの助監督だった、ミッキー・ヨコイ。彼がジュニアキャンプの参加者を、指導するモノ。ミッキーは、加州サンタモニカ生まれの日系人。その後UCLAを卒業。暫くはASUの助監督。現在は加州に戻り、ロングビーチ州立大のゴルフ部監督。まだ実現はしていない。だがミッキーは、このサマーキャンプを、日本で実施することに、大きな希望を持ち続けている。それが実現した時。日本の少年少女ゴルフ育成は、異なるレベルに、到達するかも知れない。

またこの手のサマーキャンプ。それはカレッジだけには留まらない。メーカーや自治体も、積極的に実施して来た。日本との違いがあるとしたら、それは廉価で、仰々しくないことだ。

それより何より、ミケルソンやタイガーが学んだ。有名大学ゴルフ部が、夏の間中高校生に門戸を開き、ゴルフの底辺を拡大。レベルアップを図る。それに参加することで、子供達がゴルフを上達させ、可能性として、ツアープロになる機会も増える。ゴルフ好きの父親にとっては、何ものにも勝る関心事のはずだ。

なおいま現在、ASUゴルフ部監督(英語ではMen’s Golf Head Coach)は、ティム・ミケルソン。そう、米ツアーの顔、フィル・ミケルソン。彼の弟が2011年から務めている。当然のことながら、キャンプ中、フィル・ミケルソンと、携帯でのchatも可能になる。世界に繋がるサマーGolfキャンプ。日本からも、参加する価値はあるはず。

米には、各大学のゴルフ部監督が、加盟する協会がある。そこの調査によると「40%以上の大学は、夏のキャンプを実施している」と言う。中身は数泊から一日のモノ迄。地域によって異なる。

「かつてはもっと隆盛だった。08年のリーマンショックのダメージ。それが未だ残っています。日本での開催。要望があれば、喜んで出掛ける監督は多いはず。何しろ2020年五輪は東京。みんな関心を大きくしています」と語るのは、全米カレッジゴルフ監督協会のグレッグ・グロストCEO。

繰り返すが、ツアーの金看板が育った、大学が主催する、子供達の夏のキャンプ。魅力がないはずはない。

(July.28.2014)

優勝マキロイ25歳。五輪連続金メダルの、確率上げる

スコットとローズは34歳。バッバ・ワトソン36歳。タイガー38歳。ミケルソン43歳etc。

マキロイ25歳。スピース20歳。日本の松山英樹22歳。

 先週月曜14日。全英オープン会場ホイレークで行われた、2016年リオ五輪の記者発表。右から2人目が、ドウソン会長。 その左がボウトウ副会長。世界中の記者が集まる場所だけに、多くの質問が飛んだ(R&A提供)

先週月曜14日。全英オープン会場ホイレークで行われた、2016年リオ五輪の記者発表。右から2人目が、ドウソン会長。
その左がボウトウ副会長。世界中の記者が集まる場所だけに、多くの質問が飛んだ(R&A提供)

先週の月曜14日。全英オープンの会場、ホイレークでIGF(国際ゴルフ連盟)の、記者発表が行われている。

主席者は、ピーター・ドウソン会長(R&A専務理事)、副会長のタイ・ボウトウは、米ツアーのナンバー2。2008年秋の、コペンハーゲンIOC総会。それ以前からゴルフを、112年ぶり五輪種目に復帰させる。その根回しに、東奔西走して来た2人。この日の発表には、IGFのスカンロン専務理事も加わった。

発表の中身は、既に内定していたことの確認作業。

出場は男女とも、それぞれ60人。4日間72ホールのストローク競技で、金、銀、銅メダルを決定する。

選考のベースは五輪ランキング。実質的には、現行の世界ランキング(WR)と重複する。その上でリオ五輪直前の、2016年7月11日。これが最終ランキング。出場は男女とも最大一カ国2人。だが、この時点でトップ15位以内に、多くのランク者を持つ国は、最大4人迄の、出場が可能になる。

開催国ブラジルは、ランクに関係なく、男女ともそれぞれ一人。また五つの輪が示す五大陸。アフリカ、アメリカ、アジア、欧州、オセアニア。ここから一人の有資格者も出せない大陸。それがあった場合は、五輪憲章に従い、一大陸最低一人の特別出場は保証される。

さらにドウソン会長が、強調したこと。それは「この先2年の間に、国籍を変更すること」に対する警告だった。五輪種目への復帰が決定した頃。女子プロの最強は、台湾のヤニ・ツェンだった。これは香港のメディアが報じたニュース。北京政府は彼女に、国籍変更を条件に、分厚い札束を、提示している。従ってIGFとしては、当然の予防線になる。

さて骨子が決まれば、次の楽しみは、出場者の顔触れ。そしてメダル候補の予想だ。リオ五輪は二年後(8月5日から21日迄)。主競技場はエスタジオ・ド・マラカナン。終わったばかりの、サッカーW杯。その熱狂を、世界に発信したスタジアム。一方のゴルフ場は、昨年5月着工した新設コース。受注したのは、米の女子プロ、エミー・オルコットを中心とした、米の設計グループ。

従ってコースは、まだ全貌を現していない。だが出場する顔触れは、おおよそ予想できる。

2年後である。ミケルソンは、チャンピオンズツアーが、視野に入る45歳。タイガーにしても40歳。2人合わせ、ツアー勝利数は121。そのうち合計メジャータイトルは19箇。それを積み重ねて来た、過去四半世紀の金看板二枚。だがこの2人が代表に選ばれる確率は、非常に低い。彼らにとっては、五輪復帰の時が遅すぎた。同じように、飛ばし屋ワトソンも38歳。さらに世界ランク一位のスコット。そして同3位のローズとも、36歳になる。一般的に競技者として、峠を越す微妙な年齢に達する。

それに比べ、全英オープン優勝のマキロイ。今回のゴルフ五輪復帰は、彼のために、用意された筋書き。そう思わせる程のタイミング。

2年後は27歳。6年後の東京は31歳。競技者としては、脂がのりきる年齢。不安材料は見当たらない。

尤も2年前ロンドン五輪後。マキロイは、五輪出場に消極的。そんな話をしていた。理由は母国の複雑な立場。北アイルランドは英国の一部。とは言え民族としては、アイルランド人。その辺りの背景に、言及したもの。ただし間近になり、五輪熱が高まれば、本人も当然その気になるはず。そして31歳で迎える東京。そんなことで、マキロイには二大会連続の、金メダル。その可能性が頗る高い。

リオ、そして東京とも28競技。この2大会の結果。そしてその先の開催都市に拠っては、ゴルフが五輪から外されることも、当然考えられる。そうなった時、2024年以降、ゴルフが28種目から消える可能性。そうすると、ゴルフの金メダリストは、マキロイ以降、暫くは途絶えることになる、と言う論法。それにしても27歳と31歳で、五輪を迎える幸運。タイガーもミケルソンも、羨ましいに違いない。

一方の女子。現在世界ランク一位のステイシー・ルイスは29歳。リオは何とか持ち堪えるかも知れない。だが東京は、非常に困難なはず。

代わって、年齢的に有利なのが、ミッシェル・ウイ24歳。トンプソン19歳。そしてニュージーランド国籍の韓国系、リディア・コー17歳。ウイに関しては、既に昨年末韓国から、米に国籍を移している。従って彼女の場合、国籍変更の警告には、無関係になる。

ゴルフのメジャーは、一年に4つ開催される。チャンスは、その分だけ多くなる。それに比べ、サッカーW杯同様、五輪も4年に一度の開催。競技者としての、適齢期に当たるか外れるか。それで個人の運命が、大きく左右される。

二年後の五輪要項が、発表されたその同じ週に、全英オープンで優勝したマキロイ。来年のマスターズを獲れば、生涯グランドスラムが達成される。そして2016年に迎えるリオ五輪。開催前から絶大な、アドバンテージを取った25歳。彼の五輪金メダルへの、期待は膨らむ一方だ。

(July 22.2014)

本物の19番ホール。ゴルフの幅と、楽しさを広げる

 ワイングラス片手に、ベランダから声援を送る、他のゴルファー達。緯度の高い、北米大陸やスコットランドは、夏の日没が遅い。そのため19番ホールでの、遊びばかりか、1日36ホールとか、54ホールを、楽しむゴルファーも多い

ワイングラス片手に、ベランダから声援を送る、他のゴルファー達。緯度の高い、北米大陸やスコットランドは、夏の日没が遅い。そのため19番ホールでの、遊びばかりか、1日36ホールとか、54ホールを、楽しむゴルファーも多い

ニューヨークは、実に変化に富んだ州。最南端のマンハッタンは、商業とショービジネス等で、世界をリードする。そこから、ホワイトプレーンズ方向へ、北上する。其処にはウイングドフット、ウエストチェスター等、名の知れたゴルフコース。ノルウッドCCは、その中の一つ。ここを私が訪れた理由。それは「本物の19番ホールがある。是非取材しておいたら」と、記者仲間に勧められた結果。

マイアミから、最北のメイン迄。大西洋岸を走る、米国最大の大動脈が、95号線。途中にはワシントンDCはじめ、ニューヨーク、ボストン等、主要都市が並ぶ。一方で沿線には、有名ゴルフ場も多い。オーガスタ・ナショナル、パインハーストNo.2、ザ・カントリークラブなど。

 マンハッタンから、ブロンクスを更に北上すると、古く伝統的なゴルフ場と、多く出会える。ノルウッドCCは、その中の一つ(State Farm Road Atlasから)

マンハッタンから、ブロンクスを更に北上すると、古く伝統的なゴルフ場と、多く出会える。ノルウッドCCは、その中の一つ(State Farm Road Atlasから)

西の太平洋岸を、南北に走る101号とともに、私が最も多く、ドライブして来たのが、この幹線道路。渡米して暫くは、飛行機とレンタカーの組み合わせ。それを愛車で50州走破に切り換えた。唯一無二の理由。飛行機では、上空から眺めるだけ。それに比べ、ドライブなら、より多くの(興味あるゴルフ場)を、訪れることが可能になる。そのためだった。

渡米して直ぐの頃、多く訪れた町の一つがボストン。米国を代表する新聞、ボストングローブ紙のゴルフ担当、ジョー・コンキャノン。彼は陸上記者でもあり、当然ボストンマラソンの顔。そのため何度も来日。東京での世界陸上や、青梅マラソンを取材した。大の親日家は、私に対しても協力的。多くの情報を、提供してくれた。それらはゴルフだけではない。レッドソックスの取材から、95号線沿いの、酒と食い物の旨い店まで。

ノルウッドCCを紹介してくれたのも、そんなことでジョーだった。

当時の私は、世界トップ百コースの、選考国際評議委員を拝命する前。米ツアー取材の駆け出しに対しても、米のゴルフ場は、無料でコースを、体験させてくれる。ただしジョーばかりか、ニューヨークタイムズの記者たちは、飲食にはちゃんと、カネを払う。日本の一部ゴルフ関係マスコミ。彼らのタカリ根性とは、決定的に違う。

彼の紹介で出掛けたノルウッドCC。ハウス二階のバーから、見下ろす、打ち下ろしのパー3。それが、このゴルフ場の、19番目のホールだったのだ。

19番ホールとは、普通ハウスのバー、またはラウンジのこと。一日の勝負を終え、其処でベットの精算をする。言わば(追加の大一番)。そんな洒落もあり、彼らはこう呼ぶ。ところが此処ニューヨークの、ノルウッドCCには、本物の19番目の、ホールがあった。

「ベットは概ね、どちらかが負ける。その時精算をした後、負けた方が、もう一勝負を願い出る。その時通常の18ホールは、埋まっている」。

その要望に対応出来るのが、19番目のホール。ハウスの目の前。パー3だから、直ぐに決着がつく。加えてハウスで飲食している、他のメンバー達の、声援が届く。日本のカントリークラブと違い、彼らのクラブは、メンバーとそのゲストが主体。お互いが顔見知り。僅か十数分のショーに、当事者以外にも、多くが熱狂する。ゴルフの幅と、楽しさを広げる。

この豊かな遊び心。そしてスポーツ文化の違い。米ツアー取材の駆け出しには、目から鱗が落ちたことを、記憶している。更に彼らの発想の豊かさ。それは19番目のホールがなくても、19番ホールのゴルフを、楽しむことだ。

私たちは、結構多く無料招待の、ゴルフ旅がある。その一つは感謝祭後の秋の、ゴルフメディア・クラシック。これはスコッツデールやベガスで、ゴルフ三昧の一週間。一方でカナダ・オンタリオ州からの招待も多い。此処での一週間。宿泊はトロント。ゴルフ場は郊外の新設中心。そんなことで、往復はバスになる。北極圏に近い緯度の高さ。そのため夏の太陽は、なかなか西に沈まない。

或るコース(この写真の)でラウンドが終了。名物のバッファロー・ステーキと、カナダビールで満腹になっても、まだバスが来ない。そんなタイミングで、誰かが大声を上げた。

「どうだい。19番ホールを、遣ろうじゃないか?」。

20人の参加者。勿論反対するモノなどいない。ハウスの直ぐ近くの12番ホール。これが幸運にもパー3。

ルールは、クラブ一本でボールは2個。競技はニアピン。我々がスタンバイすると、他のゴルファー達も、騒ぎを聞きつけ、ベランダに集まる。そして一打ごとに、ヤジ声援を送る。夏のぎらぎらした太陽の下。これは、まさに子供心に帰る、楽しさだった。

同じ19番ホールだが、これは技術的に、私たちとはレベルの違う話。スコットランドのミュアフィールド。正式名称は、The Honorable Company of Edinburgh Golfers。私が初めて訪れたのは1979年秋。当時の責任者は、通称キャプテン・ハンマー。途中道を間違えたこともあり、到着時間が少し遅れた。ラウンドは許可された。だが、その前に「スタート時間に遅れたら、ゴルフは失格。そのことを肝に銘じなさい」と注意を受けた。いまでも忘れない教訓。

87年だったか。それとも92年だったか。全英オープン終了後の日曜日。トム・ワトソンやベン・クレンショウ。30代だった彼らが、ミュアフィールドの、ハウス前テラスで一杯。陽はまだ高い。誰かが「日没迄数ホール」と言い出した。首を横に振るモノはいなかった。ただし実現はしなかった。(厳しいオヤジ)キャプテン・ハンマーの耳に届いたことで、中止命令が出たためだった。

これは英国の記者仲間から、後日届いた話。私たち、アベレージゴルファーばかりか、四大タイトルを獲る、一級のプロでも、18ホールで満足しない幼心。更に陽があるうちは、ボールを打ち続けたい遊び心。それが19番目のホールの、発想の原点なのかも知れない。それにしても、ゴルフとは、興味深いゲームだ。

(July.15.2014)

Old Courseと、Pebble Beach。名優が選ぶ最後の舞台

今月1日、米ツアー、グリーンブライアーの会場で「来年の全英オープン出場」を発表した、現在64歳のワトソン。とてもそんな年齢には見えない(courtesy by R&A)

今月1日、米ツアー、グリーンブライアーの会場で「来年の全英オープン出場」を発表した、現在64歳のワトソン。とてもそんな年齢には見えない(courtesy by R&A)

人間国宝の吉右衞門。彼は二年前の春、雑誌のインタビューで、次のように話している。

「八十歳で、勧進帳の弁慶を舞う。それが役者としての最終目標」。歌舞伎座が新築された。そのタイミングでの記事だった。

吉右衞門と歌舞伎座。これに匹敵するゴルフの名舞台。数多ある中でも、特筆されるのはペブルビーチ。もう一つはゴルフの聖地、と言われるオールドコース(セントアンドルーズ)だ。

今年の全英オープンは来週。ホイレークのロイヤル・リバプール。それを前に、主催のR&A(ロイヤル&エンシェント・ゴルフクラブ・セントアンドルーズ)は、2015年の予定を発表した。それも米国で。

その時65歳になっているトム・ワトソン。「彼が全英オープンに出場する」。その話だった。

四大タイトル8箇のワトソン。そのうち5つが全英オープンでのモノ。これはハリー・バードンの6勝に続く史上2位タイ。記憶に新しいことだが2009年。ワトソンは59歳で、全英オープンのプレーオフに残っている。息の長さは、驚くばかりだ。

そのワトソンが、早々と出場を決めた、来年の全英オープンは、舞台がオールドコース。それが一つの理由だった。

ワトソンが初出場した全英オープンは、遠く1975年。場所はカヌースティ。その後事故で、片腕と片目を失った、豪州のジャック・ニュートン。彼とのプレーオフを制した末の勝利だった。その全英オープン初出場から数え、来年は40年になる。

ワトソンにとって、全英オープンを代表する勝利。それは1977年のターンベリー。この時は西部劇映画の題名を真似(真昼の決闘)との表題が、米英の新聞紙上に躍った。後半の36ホール。ワトソンとニクラスが最終組で直接対決。史上希に見る激闘を展開。最終的には268のワトソンが、269のニクラスを、最少打数差で破っての優勝だった。ただしワトソンの5勝に、オールドコースでのモノはない。

それでも初出場での初優勝から40年目。その舞台がオールドコース。これ以上の設定はない。其処で早々と、一年後の日程が、発表された訳だ。

四大タイトル18箇のニクラス。彼には2種の公式ジャケットがある。一つはマスターズの勝者として、与えられたグリーンジャケット。もう一つがこれ、メモリアルのジャケット。左は筆者

四大タイトル18箇のニクラス。彼には2種の公式ジャケットがある。一つはマスターズの勝者として、与えられたグリーンジャケット。もう一つがこれ、メモリアルのジャケット。左は筆者

ワトソンは1949年9月4日生まれ。ニクラスは1940年1月21日生まれ。2人の年齢差は9歳。(ちなみにニクラスとパーマーは11歳違い)。その年長ニクラスが、かつて最後の舞台に選んだコースが、2つあった。それはオールドコースであり、ペブルビーチだった。

2005年の全英オープンも、オールドコースだった。この時65歳に達していたニクラス。5年振りの全英オープン。勿論36ホールで終わっている。それでも帝王ニクラス最後の姿。ゴルフを理解する、スコットランドの人々は熱狂。第二ラウンドが行われた金曜午後。18番に架かるスイルカン橋上で、繰り返し手を振るニクラス。この時同組で、プレーをする栄誉に浴したのが、ワトソンだった。

それより前、西暦二千年は、ゴルフ界にとって、王冠の引き継ぎが、行われた年だった。

それ迄、長いことNicklaus throne(帝位)を保ってきた彼に代わり、若い25歳のタイガーが、全米オープンの、初タイトルを獲得。その同じチャンピオンシップで、ニクラスが引退した。その舞台が、モントレー半島17マイルドライブ内の、ペブルビーチだった。

ラウンド後、18番グリーン奥で、多くの記者に囲まれる夫ジャック。その姿を、目を真っ赤にして見守る賢夫人バーバラ。メモを取りながら、カメラのシャッターを押す我々の多くが、目を潤ませていた。

鮮烈なデビューは、華やかで美しい。だがそれ以上に重要なモノ。それは集大成となる、引退の舞台だ。海外にはそれが多い。前述2コースだけではない。全米オープンでは、今年の舞台になったパインハーストNo.2。そしてオークモントやメリオン。全英オープンでも、灯台の見えるターンベリー。サンドイッチの愛称で親しまれる、イアン・フレミングの、ロイヤル・セントジョージズ。そしてミュアフィールド。それらの中でも、特別な存在が、オールドコース。そしてペブルビーチ。世界中のゴルファーが、憧れる永遠の名舞台。

前述した通り、ニクラスに比べ、ワトソンは競技者としての息が長い。そんなことで、2015年が、彼にとって最後の全英オープンになる。そのことは断言できない。とは言え、65歳を迎えるワトソンが、2005年のニクラスに続き、オールドコースに登場する。それは「80歳で弁慶を舞う」吉右衞門に匹敵する心意気。ファンにとっては、またとない贈り物になる。

比較しても詮ないこと。とは言え、それに比べ、日本には、これらと肩を並べる、舞台も役者もが、余りにも少ない。

2年前の日本オープンは、沖縄だった。本土復帰40周年の記念行事の一環。このとき特別推薦された一人は、70歳の青木功。彼は36ホールを160(79,81)のスコアだった。それ以上に青木では、歴史を語る知性が不足していた。まさに役者として劣った。これでは観客は、熱狂も感謝もしない。歴史も積み重ねられない。

ペブルビーチに並ぶオールドコース。その名舞台でニクラスに続き、ワトソンも最後の花道を飾る。一年先のこと。だが日本では、絶対に得られない、心の高ぶり。読者は、今から楽しみにしているといい。

余談を一つ。1975年の初夏。私は初めてスコットランドを旅した。F1グランプリ取材の合間に。5月1日オールドコースでラウンド中に、雹が降ってきた。(一日に四季がある)と言われるスコットランド。早速の洗礼だった。翌日乗り合いバスで、カヌースティへ移動。B&Bに一泊。翌日地元の人達とラウンドした。ワトソンの優勝まで、2ヶ月半。北国だったこともあり、フェアウエイの芝は、薄かった。そのため地元のゴルファーは、フェアウエイからの第2打以降も、その都度ティアップ。芝を保護するため。それに従い、戸惑いながら私も、毎打ティアップして打ったことを、記憶している。

(Happy Tanabata Evening)

Rudy Duranタイガーを4歳から指導。今日を築いた名伯楽

プロ転向後のコーチ、ブッチ・ハーモン程は知られていない。だがルディの指導抜きに、今日のタイガーはあり得ない

プロ転向後のコーチ、ブッチ・ハーモン程は知られていない。 だがルディの指導抜きに、今日のタイガーはあり得ない

3ヶ月の空白を経て、復帰したタイガー。世間は甘くなく、第一ラウンドは7つのボギー。金曜日も75(1ダブル、5ボギー)。2年ぶりの36ホール落ちで終わった。

この写真は、西暦2千年の春先。加州ゴルフ記者協会の、表彰ディナーでのモノ。場所はトム・ワトソンが、共同設計したスパニッシュベイの大宴会場。サイプレスポイントやペブルビーチと、同じモントレー半島。

最優秀選手として、表彰されたのは男子がタイガー。女子は99年全米女子オープン。そして全米女子プロ選手権で、二冠に輝いた、ジュリ・インクスター。その時この2人以上に、注目された受賞者がいた。ルディ・デュラン。タイガーを、4歳から10歳迄、育てた加州のプロ。実はこの年、ルディは引っ張りだこだった。

ゴルフの醍醐味は、何と言ってもバーディチャンスとの出会い。その可能性を、幼児のタイガーに植え付けたのが、このスコアカード

ゴルフの醍醐味は、何と言ってもバーディチャンスとの出会い。その可能性を、幼児のタイガーに、植え付けたのが、このスコアカード

米には多様な表彰が多数ある。USGA(米国ゴルフ協会)の、ボビー・ジョーンズ賞。これはプロアマを問わず、ゴルフ界の発展に寄与した実績。それに対して贈られる。受賞者の中には、大統領もいる。

ベン・ホーガン賞は、大怪我や病気を克服。依然として活動を、続ける競技者が対象。これは私たち、米国ゴルフ記者協会が選ぶ。

カード・ウォーカー賞は、ジュニア育成に、多大な結果を残した個人、または団体に、PGAツアーから贈られるモノ。

この頃タイガーは、絶頂期だった。このシーズンも、全米、全英両オープン。全米プロ選手権。そして翌2001年のマスターズ迄、四大タイトルを独占している。2年に跨がったことで、年間グランドスラムにはならなかった。それに代わり、米のマスコミは(タイガー・スラム)と、高評価した。

教え子が活躍すれば、当然指導者に脚光が当たる。カード・ウォーカー賞が、ルディに決まる迄に、時間は掛からなかった。

米ツアーは昨年から、通年での開催に変わった。それでもシーズンの初っ端は、正月明け早々マウイでの、トーナメント・オブ・チャンピオンズ。。前年の優勝者だけが招待される、エリートの顔見せ興業。カード・ウオーカー賞などの表彰式。それはすべてこの週はじめの、前夜祭で行われる。

ルディに対する最高の演出。それはこの時カードウォーカー賞の、プレゼンターが、教え子のタイガーだったこと。

前述した加州ゴルフ記者協会の表彰。それは、マウイでの授賞を受けてのモノだった。

移動中のタイガー。人種的な問題もあり、彼を常に、保安官(左後方)が警護していた。カートを運転するのは、父親アール。白い髭が最初のキャディ、フラッフこと、マイク・コーワン。若いタイガーは、この有能キャディからも、多くを学んだ

ルディがタイガーと出会ったのは、加州ロングビーチの(パー3の18ホールコース)ハートウエル・ゴルフ公園。激戦のベトナムへ、二度派遣され合計27ヶ月戦い抜いた、タイガーの父アール。彼が育て、2歳でテレビ出演する程の、天才振りを発揮していたタイガー。それでもアールは「遠からず、プロに預ける」ことの必要性を実感。近隣で一番の、教え上手を探し、白羽の矢を立てた。それがルディだった。

ルディが、タイガーを指導したのは7年間。彼が10歳の時に、諦めざるを得なかった理由。それは加州中部のゴルフ場から、ヘッドプロへの就任を、要請されたためだった。同地でルディは、いま自分のゴルフ場を経営。併せて(ザ・ファーストティ・プログラム)の責任者としても、先頭を走っている。

4歳のタイガーと、ルディが出会って、約20年後の姿が、この写真なのだ。

私の好きなドライブコース。その一つは加州の、海岸線近くを南北に走るルート101。途中には風光明媚な町、サンタバーバラもある。ルディの家もゴルフ場も、101沿いのパソロブレス。時折り訪れては、一緒にゴルフをし、翌日ペブルビーチまで足を伸ばすのが、何時もの旅程。

ドライブ中。繰り返し聞いた、タイガーとの昔話に、改めて花が咲く。

タイガーと接した、コーチとしてのルディ。彼は豊富なアイディアを駆使する一方で、指導者としての、厳しさも欠かさなかった。

ルディの最高傑作。その一つは、(タイガーのパー)を設定したこと。

「タイガーと初めて会ったのは、彼が4歳の時。早速ボールを打たせた。正直な話、信じ難い光景だった。僅か4歳の幼児が、殆どツアープロと思える、スイングモーションをしていたのだ」。
とは言え幼児の筋力では、飛距離は出ない。ハートウエル・ゴルフ公園の18ホールは、全部がパー3。だが長いものは、140ヤードとか150ヤード。4歳の幼児は、一打で届かない。

「一打で届かない距離は、パー4」。それがゴルフの常識。其処で、これら長いホールは、「パー3でなく、パー4でプレーさせた」とルディ。

例えば普通の距離のコースで、子供がゴルフをする。3百ヤード以上もあるホール。ここで子供達の飛距離では、7、8回打っても、グリーンには届かない。子供たちは興味を失う。

それに比べ(タイガーのパー)では、バーディチャンスが訪れる。これは子供達に、ゴルフの神髄を教える上で、最高の教材になる。

その後、成長するに連れ、顕著になったタイガーの、攻撃的なゴルフ。この基礎が築かれたのが、ルディの作った(タイガーのパー)。その恩恵だった。

日本と西欧のゴルフの違い。その一つはルールへの対応がある。日本のゴルフは、ルールに厳しさが少ない。

過日の日本ツアー選手権。ここでも最終日にルール違反が発覚。それで決着が就いている。男子プロでも、この程度なのだ。

一方のルディ。彼はタイガーと、2つのことで妥協しなかった。

「OKパットは(例え30センチでも)出さなかった。実はこの距離のパットが、ゴルフ最大の醍醐味。いや一番の難しさなのだ」。

1983年の全英オープン(ロイヤルバークデール)。強豪へール・アーウインは、30センチのパットを外して、ワトソンに一打差で敗れた。

「もう一つは、子供だからと言って、ルールの解釈で甘やかさない。ルールは大人も子供も同じ。これを徹底させた」。

現在のタイガーは、ツアー79勝。サム・スニードの持つ最多、82勝に並ぶ可能性は高い。その基礎を作ったのが、これらルディの、豊かな発想と、7年間の厳しい指導だった。(鉄を熱いうちに打った)からこその成功。そう思うと、この写真はゴルフ史の中で、大きな意味を持つことになる。

(June.30.2014)