愛すべきジョン・デーリー。カジノの負け55億円

 ペブルビーチの8番ティグラウンド。フェアウエイが空くのを待つ間、ジョーと雑談するデーリー。AT&Tの1週間。ケビン・コスナー達と共に、観客はデーリーに、大きな声援を送る。人気は衰えていない

ペブルビーチの8番ティグラウンド。フェアウエイが空くのを待つ間、ジョーと雑談するデーリー。AT&Tの1週間。ケビン・コスナー達と共に、観客はデーリーに、大きな声援を送る。人気は衰えていない

何ともスケールがデッカイ話。ギャンブルでの、負けの累計が55億円。それが与太話でないところが、また素晴らしい。

「宵越しのカネは、持たねえ」。むかし江戸っ子は、啖呵を切った。

数十億円の収入を誇る、大リーガーや、ツアーの看板達。そんな彼らが、もし稼ぎを、チマチマ財テクしていたら、興ざめする。

このオフ招待されて出場した、トルコでのトーナメント。そこで、あの”Bigジョン”デーリーが手にした賞金が、高々8千ドルだった。これもデーリーには、似つかわしくない。勿論デーリーほどの人気者。それ相当のギャラが、当然払われている。

そんな折り、面白い数字が出てきた。デーリーがギャンブルで擦ったカネは、何と55億円に達するというモノ。その殆どはカジノ。これなら如何にも、デーリーらしいスケールだ。何しろこの男、ハチャメチャを絵に描いた人生。それでいて49歳まで残っている。ファンから愛されている証拠。

デーリーとカジノ。この話をする上で、最適なのは、WGCアメリカンエクスプレス。2006年だったはずだ。場所は加州サンフランシスコ。ハーディングパーク。タイガーとデーリーの一騎打ち。これは熱狂した。最後サドンデスのプレーオフを、デーリーはボギーで落とした。1打差の2位。それでも手にした賞金は、一億円近い額。

デーリーの飛行機嫌いは有名。或る種の閉所恐怖症。だから彼は多少の遠距離でも、ドライブを選ぶ。競技終了後、デーリーが向かった先は空港でなく、フリーウエイ80号。その先は隣州ネバダ。そこには不夜城ラスベガスが、デーリー様を待っている。そこでデーリーは、幾つかのテーブルで遊ぶ。それぞれに、デッカイ賭けをしていることだけは確か。

カジノのディーラーには、元ツアープロだった人間も、何人も居る。彼らの助言。それは「賭け事中には飲むな」。理由は2つ。判断が鈍るから勝てない。気持ちが大きくなり過ぎる。その注意、デーリーの耳には届かない。

この夜デーリーは、大負けした。これは米の記者の報告があった。負けの額は、ハーディングパークの4日間で稼いだ、約1億円を軽く越えていた。

デーリーの破れかぶれ人生。これは繰り返されていて、私たち物書きには、実に興味あること。

彼はメジャータイトルを、2つ掌中に収めている。最初は91年全米プロ選手権。この時は、トップでヘッドが背中にくっ付きそうなほどの、オーバースイングで、まず度肝を抜く。妻の出産で急きょ欠場したニック・プライスの代打。更にプライスのキャディをそのまま拝借しての優勝。

処がこれらを上回る、大きなハプニングがあった。優勝直後妻と称する女性と、18番グリーン上で感激のハグ。処が彼女が、10歳以上も上。然も戸籍上他人の女房だった。

これで懲りないのがデーリーの個性。2つ目のメジャーは95年の全英オープン。会場はオールドコース。この18番グリーン上で抱擁した女房は、前回とは違う女性。だがこれらを誰も咎めない。

そして今回出てきた逸話。カジノを中心にギャンブルでの負けが、合計55億円。「いや90億円はある」との説も。それでも花柄模様の、派手派手ズボンで活動を継続。来年には50歳。チャンピオンズツアーの出場も可能になる。

それより何より、この数週後には、ペブルビーチでのAT&Aがある。これはツアープロに加え、セレブが揃うことで、多くの観客を呼ぶ。此処でのデーリーの、アマチュアパートナーは、長いことハリウッドの名脇役ジョー・ペシーだった。

今年のエントリーは、未だ確認していない。だが主催側として「客を呼べるビッグジョン」を、放っておくはずがない。

来年4月。50歳の誕生日を迎えるデーリー。その後60歳、70歳で、彼がどんな行動をし、姿を見せるか。想像するだけで、ワクワクする。タイガーの老後予測は簡単。それに比べデーリーは、全く読み切れないからだ。

その歳になっても、もしかしてビールを水代わりに流し込み、カジノのテーブルで、楽しんで居るかも知れない。

(Jan.19th.2015)

重み在る米記者会のMVPは、マキロイとルイス

 疲労困憊していても、ニクラスは私たちの質問に、トコトン答えてきた。その日のゴルフ、そして歴史の逸話まで。それはジョーンズ、更にスコットランドに遡っての、歴史に学んだことに違いない。それを世界中の報道者と分かち合い、そして米ゴルフ記者協会のMVPも、授賞してきた。マキロイもルイスも、その伝統を受け継いでいる。だから、このMVPには、世界をリードする、重みがあるのだ。 これは35年の米取材で、私が最も気に入っている一枚だ

疲労困憊していても、ニクラスは私たちの質問に、トコトン答えてきた。その日のゴルフ、そして歴史の逸話まで。それはジョーンズ、更にスコットランドに遡っての、歴史に学んだことに違いない。それを世界中の報道者と分かち合い、そして米ゴルフ記者協会のMVPも、授賞してきた。マキロイもルイスも、その伝統を受け継いでいる。だから、このMVPには、世界をリードする、重みがあるのだ。 これは35年の米取材で、私が最も気に入っている一枚だ

2015年は、カパルアで松山が、好調に飛び出して開幕した。

四月のマスターズ。そして6月の全米オープンなど。それぞれに週の前半は、晩餐会のラッシュになる。特に水曜夕刻。全米オープンの週は,主催USGAのディナー。それに対し4月のマスターズ。この週の水曜夕刻は、私たちのGWAA(米ゴルフ記者協会)主催の公式な晩餐会。同じ時間オーガスタのクラブ内では、海外からの招待選手。彼らを主賓とした、歓迎夕食会が催される。

人の集まりには,当然ながら然るべき目的がある。GWAAの夕食会。その目的は、前年の最優秀選手表彰。

マスターズも全米オープンも、ゴルフに関連する関係者。その大多数が集結する。社交の場。従って祝福する側の、世界の顔触れは,殆ど勢揃いする。その時の主賓が男女、そしてチャンピオンズツアーの、最優秀選手になる。

彼らの競技を,私たちは丸一シーズン、直接間接取材する。そして種々意見を交換する。それはゴルフ界に、多少でも役立つ。そう言った構図。だからディナー会場で会う、一人一人に思い入れがある。

その様な、過ぎ去った一年の動き。それを踏まえ昨年クリスマス時。私たちが選んだ、2014年最優秀選手。それがマキロイ、ルイス。そしてチャンピオンズツアーのランがーだった。

マキロイに関しては,文句の付けようがない。多分振られたのだろう。キャロライン・ウオズニアッキを失った衝撃にもめげず、後半2つのメジャータイトルを連取した。日本人の母を持つ、ファウラーも良く遣った。だが2度の2位と、メジャー2勝では、比較のしようがない。

この選考で、もう一つ重要視されるもの。これは投票率の高さ。より全員に近い投票が、会員としての義務。そのためヒューストンに在る事務局。そこでは「締め切り迄、あと何日」を,全会員に連日知らせる。

男子の25歳マキロイと共に、私が選んだ女子の最優秀選手は、ステイシー・ルイス。年間4勝。そのうちの一つに、全英女子オープンも含まれている。抜きん出るに、充分な成績だった。

GWAA主催の、マスターズ晩餐会は、4月8日水曜夜。そこでは、これまで示唆に富む,多くの微笑ましいスピーチが、会場を湧かせてきた。

長いこと表彰ディナーの主役が、当たり前だったタイガー。その前のトム・ワトソンと、LPGAの金看板だった、ナンシー・ロペス。更に遡ればニクラスからパーマーまで。

私たち千名近い会員(米国人だけでなく英、スペイン、そして日本国籍の私も加え)は、この様な機会に接することで、ゴルフを通した、ジャーナリストとして、多くの訓練を受ける機会を得られる。それは歴史の積み重ねだ。それも世界最強が、揃う中で。

未来の話。この先三十年が過ぎた時。マキロイは白髪交じりの、チャンピオンズツアープロに,なっている可能性。

その時パーマー、ニクラスや私たちは、既にこの世にいない。それでも今年の、表彰ディナーは、何処かで語り継がれる。

一度や二度の優勝では、到底対象にならない年間MVP。選考を終え、いま私たちは、その重みを実感している。

(Jan.12.2015)

ゴルフ目的地。今年2015年は、バハ・カリフォルニア

皆さま、新年おめでとうございます。Cabo_15a_JM_mini

雄大な日没を、ゴルフ場に穫り入れる。ニクラスの好みの手法。ここBaja Californiaでも、それが楽しめるはずだ(photos by Jim Mandeville)

雄大な日没を、ゴルフ場に穫り入れる。ニクラスの好みの手法。ここBaja Californiaでも、それが楽しめるはずだ(photos by Jim Mandeville)

今年、私が推薦する、新しいゴルフの目的地。それはメキシコの、Baja Californiaです。その最南端に、ここ数年新しいゴルフ施設が、複数オープンしています。

メキシコは国境の南。従ってそれだけ赤道に近い。その気候を利用。シーズン序盤の3月。カリブ海に面したリゾート、マヤコバで男子ツアーが行われている。この辺りは、東部など、米の中心部から、視野に入る。

一方のメキシコ太平洋岸。そこは開発が遅れた。一つの理由は、突き出た大きな半島だったこと。処がいま、その半島が売りになっている。それがバハ・カルフォル二ア。

この半島は基本的に乾燥気候。そこでいまゴルフ場造成が活発。米東部からは遠い。だがカリフォルニアの、LAやサンディエゴからは、空路2時間前後。と言うことは、日本から一度の乗り継ぎで行ける。それゆえに、私はバハ・カリフォルニアを、読者諸兄に、紹介したいわけである。

ことにバハ・カリフォルニアでも、いま注目されているのは、半島最南端の、Puerto Los Cabos周辺。ラウンド時間が、遅くなれば、遠く太平洋に沈む、ゴージャスな夕日を満喫できる、絶景のポイント。 また季節によっては、ホエールウオッチングが、楽しめる可能性もある。新設のうちの2つは、ジャック・ニクラスの作品。

 この地図が示す通り、リオグランディの南がメキシコ。その本土は全体に山国。そのためメキシコシティやグワダラハラなど、大都市は海抜1マイルの、高所に造られてきた。  左側に長く突き出た半島が、バハ・カリフォルニア。今年のお勧めは、この最南端への旅だ(State Farm Road Atlasから)

この地図が示す通り、リオグランディの南がメキシコ。その本土は全体に山国。そのためメキシコシティやグワダラハラなど、大都市は海抜1マイルの、高所に造られてきた。
 左側に長く突き出た半島が、バハ・カリフォルニア。今年のお勧めは、この最南端への旅だ(State Farm Road Atlasから)

米のリゾートの草分けは、ノースカロライナ州のパインハースト。深い雪に覆われる、東部ニューヨーク、ボストン首都ワシントンなど。そこから列車で南下。そのエスタリッシュメントを対象に、開場は1895年。全米オープンが、産声を上げたのと同じ年。

その後1907年。有名なNo.2コースが完成した。設計者はドナルド・ロス。スコットランドの、ドーノックでゴルフと、コース設計を学び、一時代を築いた功労者。

そのパインハーストが、Golf destinationの草分け。その後航空機が発達。交通の便がよくなると、更に南下してフロリダ。太平洋のハワイ。さらにメキシコ国境に近い南加州、スコッツデールや、カジノの都ベガスへ分散拡大した。

それら一世紀超の歴史を踏まえ、今年、私が皆さんに紹介したい、新しい目的地がバハ・カリフォルニア。その最南端にオープンした、Cabo del Solの2つのコース、オーシャンとQuiviraだ。

百聞は一見に如かず。この2枚は、ニクラスの専属コース写真家、Jim Mandevill が、撮影したモノ。日本では到底、お目に掛かれない光景。こんな場所で、ゴルフのバカンスを過ごす。生命の洗濯に、これ以上の贅沢はない。

かつて、バブル景気華やかし頃。日本のゴルフ好きは、その多くが、強い円を懐に、ハワイ、そして南加州のゴルフ場に、殺到した。当時この辺りのゴルフ場で、石を投げれば、当たるのは日本人だった。

そして今、スローライフ。そしてより豊かな個性的選択が、可能な時代。

私自身、未だ此処は体験していない。だが、何れもニクラスの自信作。それは日本の大衆ゴルファーにとって、遠い存在。それだけに、今年2015年「プレーし、満足したコース」に付け加える」。楽しいことに、違いない。

(New Year’ Day.2015)

米プロゴルフ協会員、活動50年。我が友ノーマンを祝う

 半世紀の、継続の賜物。溜まった50枚の、PGAオブ・アメリカ会員証を、誇らしげに見せるノーマン。素晴らしい快挙だ

半世紀の、継続の賜物。溜まった50枚の、PGAオブ・アメリカ会員証を、誇らしげに見せるノーマン。素晴らしい快挙だ

米ゴルフの、懐の深さ。その一つは、会員であれば、入場券がなくとも、あのマスターズが観戦できる。この柔軟なシステムに在る。

80年代、長期日本に滞在。主に米軍厚木基地、そこで支配人ヘッドプロを務めた、米人ノーマン・レノー。この春77歳の誕生日を通過。一年ごとに、更新される会員カード。それが遂に50枚に到達。併せて協会(PGAオブ・アメリカ)からの、表彰も受けた。

米のゴルフ場数は、約一万七千。それを動かすのはPGAオブ・アメリカの会員。その数は、おおよそ2万5千人。スコアだけで、メシを食うツアープロは、その中のほんの一握り。だからこそ、マスターズでさえ、ノーマンの持つ会員カードが、尊敬を持って、受け入れられるのだ。

ノーマンとの出会いは、80年代初め。偶々日本に戻っていた私に、「基地のゴルフ場の、取材は出来ないか?」との依頼。早速連絡してみると、電話に出たのが、ノーマンだった。気さくな米人の代表。そればかりか、歴史も含めた、ゴルフの知識は豊富。もっと驚いたこと。それは日本文化に対する、とてつもない、思い入れだった。

時折り日本のゴルフ場へ、出掛ける。その時ノーマンは風呂に入らない。基地近く迄ドライブ。そこでタイルに、富士山の絵が描かれた銭湯に入る。そのあとのカラオケ。十八番は矢切の渡し。その頃は、これを全部日本語で歌った。知性の高さ、そして好奇心の強さ。それがなければ実現は不可能なこと。

極め付けは富士登山。或る年、彼は背中に4番アイアン。ポケットに6箇のボールを持ち、山頂に立った。「石ころだらけ。ティアップし6箇全部、打つ積もりだった。でも息切れがして」。

日本人では、湧かない発想。一つの背景。それは富士山に対する信仰。ノーマンはそれを理解していた。それでも実行した。米人の開拓者魂だったのだ。

父親の影響で、ノーマンはプロに。程なくして徴兵され西ドイツ(現在のドイツ)勤務。エルビス・プレスリーのGIブルースと、ほぼ同時期。そこを皮切りに、全米各州。そして日本、韓国。さらにキューバの、グワンタナモ湾基地にある、軍関係者の為の9ホール。ここにも勤務した。

PGAオブ・アメリカの、会員としての、ノーマンの50年の歴史は、世界を股に掛けた、冒険者だったことが分かる。会員が2万5千人もいる。その中では、彼のように、豊かな個性の持ち主が、次々育つ。
約5千人の会員が揃ってレッスンだけで、メシを食おうとする日本とは、大きく違うことが、分かる。

長男ショーンも、PGAオブ・アメリカの会員として、テネシー州でゴルフ場を、切り盛りしている。ノーマンが住むのも同州。だから家族とも頻繁に会える。またフロリダが近い。そのため冬の間は、愛妻ジェニファーと、頻繁に温暖地フロリダでの、ゴルフを楽しんでいる。エージシュートの連絡は、しょっちゅう届く。

またこの夏は2人で、ドイツなど欧州の、懐かしい旅を満喫している。豊かな老後だ。

そして此処でも、米の組織の奥深さが見られる。PGAオブ・アメリカの会員証を提示すれば、ノーマンは米内の大多数のゴルフ場。そこで無料。米のゴルフ場は、それだけ潤っている。と言うことなのだ。

「一、二年以内に孫を連れ、是非日本へ行く。一緒にらラウンドするコース。押さえておいて欲しい。それから大相撲も観戦したい」。

一緒に銭湯に浸かり、カラオケを楽しむ。その日が待ち遠しい。繰り返すが、米のゴルフは大衆のもの。廉価だが堂々たる、スポーツ文化なのだ。

(Dec.29.2014)

PING三代目の陣頭指揮と、ちびっ子相撲への関心

育ちの良さ。さらに大きな成果を、上げ続けることによる自信。それらが表情に溢れていた

育ちの良さ。さらに大きな成果を、上げ続けることによる自信。それらが表情に溢れていた

メーカー別に見た時。今年最も活躍した一社。それは紛れもなく、PINGだった。

4月バッバ・ワトソンが、オーガスタで再び吹かせた、ピンク旋風。それだけではなかった。シーズン掉尾のFedExプレーオフ。この時はハンター・メイハンに続き、若いビリー・ホーシェルも、ビッグタイトルを掌中に収めた。そんなことで、米ツアーの2014年評論。ここでもG30シリーズを筆頭にした、PINGの強さ。それが特筆されていた。

プロ契約の先読みの強さ。アリゾナ州フェニックスの本社。広報担当ピート・サミュエルスが、次のように説明する。

「カレッジからツアーの現場まで。プロ担当の能力の高さと、データの確実さ。それに基づく、経営トップの適切な判断」

PINGで目立ったこと。それは日本国内でも、素晴らし躍進があったことだ。何しろ女子だけで、年間6勝している。3、4年前に比べると、圧倒的に異なる勢い。それを牽引したのが三代目。いわゆる創業者カーステンの孫、ジョンK.ソルハイムの、日本での3年間だった。

PING Japanの正面に、飾られている、約三十年前の写真。レーガン政権を救った、企業としての功績と名誉は、歴史に残る

PING Japanの正面に、飾られている、約三十年前の写真。レーガン政権を救った、企業としての功績と名誉は、歴史に残る

かつて80年代。双子の赤字に直面した米連邦政府。その逆境に立ち向かった、企業の一つがPING。時の大統領レーガンは、カーステンと妻ルイーズを、ホワイトハウスに招待。E Awardを授与している。Eとはエコノミーを意味する。それ程の企業が、気が付いた時、日本の市場占有率で、大きく後退していた。

PINGばかりか、世界の主要メーカーにとって、日本のマーケットは大きく重要。そこを立て直す急務。その切り札に、本社会長ジョン・ソルハイムは、自分の長男ジョンK.を送り込んできた。それから三年有余。PINGは盛り返し、今季の素晴らしい数字に結び付けた。その結果が、国内での今季6勝でもあった。

その話を聞く必要がある。初夏の5月30日。帰国の準備に忙しいジョンK.に無理を言い、1時間のアポを取った。話は大いに弾んだ。

ジョンK.の強みは、経営者自らが、用具開発のスペシャリストでもあること。97歳になった祖母、ルイーズが昔から、目を細めて話していたこと。

「中学の頃から、ジョンK.の遊び場はPINGの、組み立て工場。放課後カーステンの後を追っ掛けるようにして、毎日歩いていた」

ジョンK.は2つの大学(オクラホマ州立大とアリゾナ州立大)で、経営学を学んだ。とは言えコンピュータ世代。彼の若い頭脳は、カーステンの天才的なひらめきに、コンピュータ設計を、自然のうちに加えていった。

人気のドライバーを、手にするジョンK.

人気のドライバーを、手にするジョンK.

例えば各メーカーの新機種発表。通常は開発に拘わった。担当者が壇上に立つ。処がPING Japanでは、ここ数年社長自らが説明した。開発の陣頭指揮も執る経営者の説明。これは強みだ。

一方ジョンK.の祖父で、PINGの創業者、カーステン。彼は日本と日本人をこよなく愛した。70年代から数十年。夫婦揃って毎年一度は来日した。宿泊は帝国。そこで当時5社あった、日本の代理店をはじめ、旧知を招いての夕食。東京で育った我が家の息子2人、彼らがカーステン、ルイーズ夫妻に、初めて会ったのも、そんなことで帝国ホテルでの、夕食の時だっや。

日本が好きな、DNAがさせたのだろう。ジョンK.の長男は、滞在中ちびっ子相撲にも参加している。白人の子供が回し(褌)一つになる。日本文化に溶け込む、積極的な光景。それだけではなかった。

PING Japanの所在は、北区の浮間。目の前荒川の河川敷には、浮間ゴルフリンクスがある。そこでジョンK.を筆頭に、時折り全員参加の、社員ゴルフも行ってきた。河川敷と言えば、日本では安っぽく見られるモノ。そこをジョンK.は「昨日は、浮間ナショナルで」と、笑顔を作った。日本ゴルフの底辺を支える河川敷に、オーガスタ・ナショナルGCを重ね合わせる。センスの良さと日本への愛着。それもPING Japanを、短期間で復活させた、大きな要因だった。

その後アリゾナの本社へ戻ったジョンK.は、そこで引き続き、日本社長としての、務めも果たしている。

「グローバル時代のいま。仕事をする場所は、何処でも同じ。特に日本のスタッフは、責任感が強く能力が高い。アリゾナに帰ったいま。有利な点があるとしたら、それは自分の言葉での日常会話。それが通じる範囲が、少し広がることかな」と、40歳を過ぎたばかりの、若い経営者は、はにかむ。

21世紀のいま。企業、そして経営者に求められるモノ。それが着実に、変化している。ジョンK.の日本での3年間は、それを如実に語っていた。

(Dec.22.2014)

黒人シフォード92歳。米大統領自由勲章受賞。その光と影

 かつてWASP(アングロサクソン系白人で、宗教はプロテスタント)の象徴だった、首都ワシントンのホワイトハウス。そこでアフリカ人を父に持つ大統領から、メダルを授与される黒人プロ、シフォード。米社会の、過ぎ去った一世紀の歴史が、凝縮されているようだ(photo coutesy by PGA of America)

かつてWASP(アングロサクソン系白人で、宗教はプロテスタント)の象徴だった、首都ワシントンのホワイトハウス。そこでアフリカ人を父に持つ大統領から、メダルを授与される黒人プロ、シフォード。米社会の、過ぎ去った一世紀の歴史が、凝縮されているようだ(photo coutesy by PGA of America)

1936年(昭和11年)ベルリン五輪。ジェシー・オーエンスは、陸上短距離などで、4つの金メダルを獲得。その中継の米の映像で、躊躇なくNegroの表現が、使われていた。

その後黒人を経て、現在はアフリカ系。呼び名が変わっただけではない。当時米南部で、彼らは家畜扱い。乗り合いバスも、前の座席は白人がゆったり。その一方で彼らは後部座席に押し込められた。

マーチン・ルーサー・キングが登場、公民権法の施行が1964年。20世紀初頭は、プロ野球の二グロ・リーグも存在した。肌の色の違い。その差別を乗り越えた1947年。あのジャッキー・ロビンソンが、黒人初の大リーガーに抜擢された。

年齢も、活動した時代も大きく異なる。それゆえ私はシフォードを、直接取材したことはない。その92歳黒人プロが、今回大統領自由勲章を授与された。「米の国益や世界平和の維新。文化活動他の貢献者」が対象になるもの。米ゴルフ界では3人目。これ迄の受賞者2人は、パーマーとニクラス。彼らと比較した時、多くが異質を意識するかも知れない。何れにしろ、シフォードの生まれは1922年。南部の農村ノースカロライナ州。記述した通り、彼の人生前半は、米社会の壮絶な差別が存在した。その時代だった。

リー・エルダー達、数世代下のアフリカ系には、取材もしている。そのうちの一度は、1975年のマスターズだった。だがシフォードとは面識もない。そこで連想させられるのは、反骨精神との言葉。恐らく間違いないはず。

大統領自由勲章を贈られた11月末。シフォードの、次のようなコメントが、ホワイトハウスから出ている。

「私の人生は闘いだった。何故なら私は闘争心が旺盛だったから。その結果、人生の終盤でこれだけ多くの黒人が、ゴルフを楽しむ光景に、接することが出来た」。

マスターズの舞台、オーガスタ・ナショナル。ここでは長いこと、プレーする旦那衆は白人。黒人の役割は、キャディなど下働きだった。シフォードも13歳でキャデイ。そこでゴルフの腕を上げ、1952年のフェニックスで、ツアー競技初出場。これは当時のヘビー級王者、ジョー・ルイスの推薦があった結果。そして1957年ロングビーチオープンで初優勝。その後1975年の全米プロシニアでも優勝。2004年には、黒人として初の、世界ゴルフ殿堂入りを果たした。

またセントアンドルーズ大(スコットランド)から名誉博士号。また米GCSAA(全米ゴルフコース管理者協会)からは、最高の栄誉トム・モリス賞も贈られた。肌の色がどうであれ、堂々たるゴルフ界での実績だ。

この発表があった直後。ニクラスが透かさず、コメントを出している。

「彼の授賞は、記録が対象になったモノではない。チャーリーは、米社会のバリアを取り除いた。その中でも彼は、常に重々しさや気品を、失わなかった」。

1958年。18歳の天才ニクラスが、米ツアー競技に初出場したのは、オハイオ州ファイアストンCCでの競技。彼の話によると「その時、私が最初の2ラウンド、同組になった1人がシフォード」だった。それだけに印象は、強かったはずだ。

一方で、このタイミングで、92歳黒人に、大統領メダルが贈られた背景。それはレームダック化した、大統領オバマの、話題作りとの見解もある。勿論のこと、それを裏付ける証言もある。

広大な米で、私は本拠地を2つ持つ。それらはアリゾナと、加州のロングビーチ。後者には私の編集担当プロで、PGAオブ・アメリカの会員でもある、スティーブ・クックが住んでいる。そのため。頻繁に訪れるし、それ以上に多くの情報も届く。然もシフォードが、プロ初優勝したのは、1957年のロングビーチオープン。そんな歴史も在り、シフォードの話は、折に触れ長いこと酒の席で語られてきた。

「キャデイに優しい言葉を、掛けた姿を見たことがない」。「キャデイフィーを、約束通り払わず、値切った」など。

公民権が施行される前の米国で育った。その時のエネルギー。それはもしかして、反骨精神だけだった。その裏返しが、ロングビーチ周辺で、語り継がれている、チャーリー・シフォードの、陰の部分なのかも知れない。そう思うと92年という歳月は、実に長く貴重だ。

(Dec.15.2014)

NZ人プロ、スメイルが、校長先生になる

 195センチは、流石に大きい。だがゆったりした、ニュージーランドで育っただけに、人当たりは頗るソフト。日本にもファンは多い

195センチは、流石に大きい。だがゆったりした、ニュージーランドで育っただけに、人当たりは頗るソフト。日本にもファンは多い

年末はプロ野球選手の、契約更改の話が賑やかだ。40歳を過ぎた例外もある。だが多くは30代。中には20歳を、僅かに過ぎて解雇を、言い渡される若者も少なくない。才能の勝負だけに、スポーツで身を立てる。端で見るほど、簡単でないことが判る。

ニュージーランド(NZ)人、デビッド・スメイル。195センチの長身プロは、02年の日本オープン(下関GC)覇者でもある。そのスメイルが校長先生になることを、本気で考えている。

野球、サッカーなどに比べ、ゴルフの選手寿命は長い。とは言えスメイルも44歳になった。そして今季76位。来日以来初めて、賞金シードを失った。かつて賞金ランクの最高位は、2度の5位。そして日本ツアー5勝のベテランも、一歩立ち止まる時が来た。

「来季も日本でプレー。さらに50歳を過ぎたら、日本のシニアも、視野に入れている」。

それとは別に、スメイルが考え始めたこと。それは18年に及ぶ彼の人生。

「97年に初来日以来、18年を過ごした。その間に日本オープンのタイトルも獲れた。米から来ていた、ハミルトンやジョーブ。彼らも多くの勝利を収めた。でも日本のナショナル・オープン選手権には、手が届かなかった。

それを考慮した時、僕には遣るべき、もう一つの役割がある。それは現役を続ける一方で、日本の若者にゴルフの指導をする。その中から、将来日本オープンで優勝。さらに海外に飛躍できる素材を育てる。そのこと」。

シーズンを終えて帰国したスメイルの、アイディアの一つ。それは日本と比較にならない、NZのゴルフ環境。最大の違い。それはゴルフに要する料金。日本が高すぎるのか。それともNZが正常なのか。

日本を主戦場にするスメイル。彼は12月からの3ヶ月以上、トーナメント活動はない。その間に、日本からの若者を、ニュージーランドで引き受ける。年齢層は2つ。プロを目指す18歳以上の年齢。もう一つは中学高校生のグループ。

「日本人は2つのことを、一度に学ぶことが憧れ。ゴルフを上達させながら、英語も喋れるようになること」。

スメイルは、そこにも着目している。これは彼が、日本で18シーズン過ごして、得た感触。

これだけではない。シーズン中もトーナメントのない週がある。その時今度は、日本国内で老若を集め、全国各地でゴルフの巡回指導を行う。必要に応じアシスタントを付ける。とは言え、校長先生として、リーダーシップを執るのは、スメイル自身。日本ツアーで18年の44歳が、辿り着いた考えの一つ。それがゴルフ学校の校長先生だった。そんな中でも、彼が特に意識したこと。「それは日本オープンの重み」だったと言う。

「日本オープンのタイトル。これを獲れるのは、年に一人しか居ない。日本人の多くが、それを生涯の目標にしている、僕は外国人で、その名誉を得た。これは本当に有り難いこと。日本を主戦場にする、他の外国人プロ以上に、この名誉に対し、だから僕は恩返しをしたい」。

妻シェリーとの間に、2人の子供にも恵まれたスメイル。ニュージーランドでの日常は、貸しビル等の副業まで順調。その余裕ある環境が「日本で後進を育成する」発想に繋がったことは当然だった。

「NZの人口は450万人。少子化と言われ、人口減少が始まった日本、だが依然1億2千万人の国。そればかりか野球を楽しむ子供達は、大変な数、恐らく三、四十万人は、と僕なりに推測する。不思議なこと。高校卒業後、彼らが野球を継続しいる。その話を殆ど聞かないこと。だったらゴルフを遣りなさい。

僕も大きいが、テレビで観る高校球児は、多くが体格的に恵まれている。ゴルフプロの眼に映る彼らは、ゴルファーとして、育て甲斐のある素材。それが日本には沢山いる。食指が動きます」。

日本とニュージーランド。夏冬は逆。だが時差は僅か3時間。飛行時間は9時間余。いまや何処もLCC時代。校長先生スメイルの実力発揮。そして日本ゴルフ界への貢献が、期待される。

(Dec.08.2014)

先週末の感謝祭の休日。52年前の映像を楽しむ

 感謝祭のディナーを差配するバーバラを、、頼もしく見守る夫ジャックと5人の子供たち。家族愛が溢れる、素晴らしい光景だ

感謝祭のディナーを差配するバーバラを、、頼もしく見守る夫ジャックと5人の子供たち。家族愛が溢れる、素晴らしい光景だ

先週末は感謝祭。多くの米国の仲間が、祝いのメッセージ。そして写真他を交わしていた。

facebookも例外ではなく、ニクラスの処からも、2枚の写真とコメントが添付された。

一枚は1979年、感謝祭夕食の光景。長男ジャッキーと、次男スティーブン。2人は随分大人びているが、ゲイリーと末っ子マイケルは、未だ子供々々している。

ニクラスの口癖。それは「プロとしての18箇のメジャータイトル。これは前人未踏の記録であり、誇らしいモノ。だが私にとって生涯の幸運。それはバーバラと出会え、5人の子供に恵まれたこと」。

その結果の22人の孫。10月も半日仕事先で、一緒に過ごしたが、家族の話をする時のニクラスは、目を細め、途端に好々爺に変身する。

1979年。ニクラスにとって実は、良くない年だった。オハイオ州立大を2年で中退。その後1962年全米オープンで、ツアー初優勝。以来17年続けていた、毎シーズン優勝の記録が、途絶えた時だったのだ。

それを切っ掛けに、一部プレースタイルばかりか、体型や髪型も変えた。それまでOhio fat(オハイオのデブ)と野次られた体型をスリムに。またGIカットを長髪にも変形した。そして翌80年、バルタスロルの全米オープン。ここで「Jack is back!!」を果たすのだが、感謝祭はその7ヶ月も前のこと。言わばどん底状態での、家族7人での感謝祭の夕食。然し和やかさは、少しも失われていなかった。

先週の感謝祭週末。米のFOXテレビがオンエアしたのは、1962年全米オープンの映像。ニクラスの話に拠ると「USGAが管理しているアーカイブ」だそうである。それはニクラスの、メジャータイトル18箇の、第一歩が踏み出された時のもの。相手は”King”パーマー。舞台は彼の本拠地、ペンシルベニア州オークモント。州境を持つが片方は、フィラデルフィアの在る東部。一方のオハイオは中西部。いわゆる田舎。然もニクラスは、パーマーより11歳下。その若造が憎たらしいほど強い。

72ホールは283のタイ。翌日18ホールで、行われたプレーオフは、ニクラスが勝利した。それもKingの本拠地で。米ばかりか、海外のゴルフ界では、永遠に語り継がれる、名勝負の一つ。半世紀以上が過ぎても、多くが記憶するその場面。加えて感謝祭週末は、苦しかった開拓時代を思い起こし、歴史に感謝する時。だから七面鳥料理を食べる。その後父と息子が、庭の芝の上で、フットボールを投げ合い、絆を確かめ合う。その時間帯。午後3時からの放送。家族で楽しむテレビ番組として、ニクラス、パーマーの熱戦は、打って付けだった。

 FOXテレビで放送された、1962年全米オープンの映像。52年が過ぎても、迫力は色褪せて居なかった

FOXテレビで放送された、1962年全米オープンの映像。52年が過ぎても、迫力は色褪せて居なかった

1962年と言えば、東京五輪の2年前。映像は勿論モノクロ。歴史を回顧し楽しむためには、またとない機会。

翻って日本のテレビ。一部マスターズの再放送が視られる。だが多くの場合、正月のゴルフ番組と言えば、いま売れているプロを、お笑いタレント。彼らと組み合わせただけの、バラエテイ番組しか出てこない。昨年だったかは石川遼と、とんねるずの組み合わせ。これは明らかに、送り手側の発想が、貧弱安易過ぎることの結果。そんな体たらくを続けているから、シーズン中のトーナメント中継。その数字(視聴率)が、どん底目指して、落ち続けて行く。自業自得なのだ。

テレビの視聴率。今季これ迄のものが、手許に届いている。何れも3%前後の厳しい数字。「せめて女子プロとの合計で、10%に届くと」。そんなため息が聞こえる。然し日本のプロゴルフの、テレビ視聴率が回復する期待。それはほぼゼロ。それはツアーの組織や、テレビ局が、目先の0.1%の数字に、自転車操業している。その結果長期的なスパンで、全体を見渡す能力が、欠落するからだ。

1962年の全米オープンに匹敵する名勝負。それは日本にも残っている。例えば1988年、そして1989年の日本オープン。ジャンボ尾崎が、連覇した時のもの。双方とも大詰めにドラマがあった。その場面を思い起こすだけでも、1千万ゴルフ好きは、わくわくするはず。四半世紀も昔の映像だけに、若い世代には、それぞれに新鮮な情報にもなる。

米の感謝祭からクリスマス迄は、日本の正月と同じ。その時これらを茶の間に届けることで、歴史を掘り起こす役割も担える。まさに一石二鳥。場合によっては、ニクラスやパーマーの、全米オープンの映像でもいい。

そこでカギを握るのは、制作する側の知識。米英では高がゴルフでも、歴史家historianが活躍する。その影響もあり、週末パブリックコースで遊ぶ大衆ゴルファー。彼らでもジョーンズ、へーゲン、サラゼン達の、故事来歴に関する雑学も豊富だ。それはテレビ等の報道機関が、根気よく丁寧に情報を、送り続けているからに他ならない。

日本ゴルフ界の、決定的な弱点。それは歴史(ことに世界の)を理解し、熟知した人間が、余りに少ないこと。居たとしても、それは知ったか振り。そのため、縦しんば1962年全米オープンの、映像を素材として渡されても、それは豚に真珠で終わることになる。

数十年も昔の映像は、歴史書を読むに等しいこと。それだけでも新鮮だ。感謝祭の週末。午後3時から全米で放送された、モノクロ映像。どの様な視聴率が出たか。その報告が待ち遠しい。

(Dec,1st.2014)

商品価値急落タイガー。湾岸地区にも、見捨てられる

かつてクリント・イーストウッドにも、勝利(AT&T)を祝福されたタイガー。ドバイもカタールも、年明けもう彼に、関心を示さない

かつてクリント・イーストウッドにも、勝利(AT&T)を祝福されたタイガー。ドバイもカタールも、年明けもう彼に、関心を示さない

「もうタイガーは、要らない」。その台詞を、こんなに早く聞こうとは。

豪華自家用機で現地入り。賞金とは別に、アピアランス・フィー(出演料)が、最大3億円。一年前の冬には、その後ソチに立ち寄る。そこで恋人リンゼイ・ボンを応援する。そんな話も、持ち上がっていた。そうなった時、テレビ局の、喜ぶまいことか。

尤もケガが回復せず、リンゼイは五輪を断念。その結果タイガーが、銀世界で脚光を、浴びることはなかった。

米ツアーは、一年前からシーズンを、通年開催に移した。秋はフットボールの季節。そこで実施されていた、小規模トーナメントも、例のFedExポイントの対象にしたこと。だが、どう足掻いても、これらは一軍半から二軍戦。タイガーたち看板にとって、知ったことではない。それより冬期の数ヶ月。彼らには一シーズンの、旅の疲れを癒やす。一方でアジア、欧州、湾岸地域へ大名旅行しながら、目の眩むようなカネを稼ぐ。そんなファーストクラス・ビジネスも、ことタイガーに関する限り終わった。

かつてはカシオなど、日本の秋もタイガーにとっては、上得意さんだった。その日本が駄目になると、後は専ら湾岸地区。ことにドバイとカタール(時期的には1月後半)。毎年そのどちらかが、長いことタイガーに、3百万ドルのギャラを、払い続けて来た。だがその湾岸の春も、来年はもう来ない。

これら湾岸地域のトーナメントが、2ヶ月近くも前。「もうタイガーは不要」と公表したのだ。理由は簡単。ツアープロとしての、タイガー・ウッズの、商品価値に先が見えてきたこと。高額の出演料を払って迄、呼ぶ意味が消滅した。ショービジネスの世界での掟。簡単な理論だ。

勿論タイガーも、それは百も承知。高額の離婚慰謝料は取られたが、依然としてツアーきっての高額所得者に、変わりはない。12月には、ワールドチャレンジをホストする。そのあと来春の、サンディエゴ迄は、リンゼイとの甘い生活を、満喫するはずだ。

この変化に、私は大きな拍手を送っている。これによって多少なりとも、タイガーが招いた、ゴルフ界へのインフレが沈静化する。そのことへの期待があるからだ。現在タイガーの代理人は、スタインバーグ。ただし彼は、取り立てた役割を、果たしていない。昔タイガーに、とてつもない価値を、付けたのはマネジメント会社IMGの2人。創業者マコーマック会長。その下で具体的に動いたのが、副社長ヒューズ・ノートンだった。

1996年夏。全米アマV3を達成した、その夜。スタンフォード大を2年で中退。プロ転向させる。ヒューズとしては、ギャラを得ての、海外からの招待は、端から大歓迎だった。私のインタビューに、答えは当初「25万ドル」だった。それが96年秋のうちに、瞬く間に2勝。更に年明けマスターズで、2位カイトに12打差の圧勝。その結果ギャラは、毎週の様に跳ね上がり、遂に3百万ドルの大台を付けた。

他にも、契約2社(タイトリストとナイキ)の支払いが合計70億円。歩調を合わせるように、テレビ各局もツアーへの放映料を、大幅に上げた。それに呼応し、他のプロの契約金。そして多くのゴルフ場のプレー代金も、高騰した。タイガー登場が招いた、完全なインフレ。ゴルフ界全体に、ボディブローとして効いた。

タイガーが、全米オープン初優勝した西暦2千年。この頃米の新設コースは、年間4百を数えた。それがここ数年は一桁台。一方で廃業するコースも増えている。タイガーの登場は、結果的に、ゴルフ産業の世界的な、斜陽化を早めた。そんなタイミングで、湾岸地区もタイガーを見捨てた。当然のことだった。

そもそもタイガーは、5年前既に地に墜ちた。例のセックス依存症に拠る大醜聞。それでも2013年のシーズン5勝で、何とか面目は保った。だがその後がいけない。アマチュア時代から、手術を繰り返した左膝。加えてアキレス腱、腰から背中まで痛み出す。それを除去するため腰の手術。マスターズ直前の、今年3月31日だったことが、緊急の度合いを物語っていた。

然し手術はしたモノの、痛みは消えず。その結果の活動続行の不可。上得意だった湾岸地区からも、見捨てられたことで、タイガーの上がり目は、ほぼ消えた。そう見て間違いなさそうだ。

12月30日の誕生日で、39歳になるタイガー。11年後、彼はチャンピオンズ・ツアーに、関心を示すのか。それとも、車椅子の生活が、待っているのだろうか。

(Nov.24.2014)

68年ぶり。全英オープンが、北アイルランドに戻る背景

 優勝杯クラレット・ジャグを前に、喜びの発表をする、ポートラッシの代表者たち。右から2人目は、R&Aの責任者、ピーター・ドウソン専務理事

優勝杯クラレット・ジャグを前に、喜びの発表をする、ポートラッシの代表者たち。右から2人目は、R&Aの責任者、ピーター・ドウソン専務理事

ゴルフと言えば、スコットランドのゲーム。その印象が強い。とは言え、アイルランドも、ほぼ同じような、地形と気象条件を持つ。それ故に一級のコースは多い。

首都ダブリンに近い、バレーバ二オン。そして南のラヒンチ。これがアイルランドの一、二位ランク。一方の北アイルランド。ここを代表するのは、何と言っても、ポートラッシだ。過去アイルランドで、一度だけ開催された全英オープン。遠く1951年。その舞台がポートラッシ。そこに全英オープンが戻る。2019年と言うから5年後。68年ぶりになる。

理由は言わずもがな、ここ数年の、北アイルランド勢の活躍だ。

2010年の全米オープンを制した、グレアム・マクドウエル。2011年クラークが全英オープン。その後若いマキロイが、2011年全米オープンを皮切りに、2012年の全米プロ。そして今年は全英オープンと全米プロで、メジャー2冠。年明け4月のマスターズを獲れば、ニクラス、タイガーに続く若さで、生涯グランドスラムに届くことになる。

今まさに北アイルランド勢は、日の出の勢い。地元ファンは、全英オープンで、自分たちのヒーローの姿を見たい。当然大量の切符も捌ける。主催R&Aにしても、それを見逃す手はない。それら諸々の要望が重複。その結果2019年、ポートラッシでの開催が決まったモノ。

ここで小さな2つの島と、その間に横たわる、アイルランド海の説明が必要になる。ご存じの通り、これらの島は民族的に、入り組んでいる。そのためサッカーW杯には5つのチームが、欧州予選に駒を進める。それらはイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランド。そして別の独立国アイルランド。その英本島とアイルランドの間に横たわるのが、アイルランド海。

全英オープンが、そのアイルランド海を渡ったのは、過去一度だけ。それが1951年であり、その時のコースがポートラッシだった。

設計者はオールド・トム・モリス(父)とヘンリー・コルト。2人の作風は、グリーンを複雑微妙にしたことで、コースとしての奥深さを、より大きくした。例えばパー3の14番は別名災難Calamity。それだけに、ここポートラッシへの、68年ぶりの全英オープン復帰は、大きな期待が持たれる。

そのポートラッシに戻る背景。そこに在るのは、このところ続く、北アイルランド勢の活躍に他ならない。

古い話になるが、クラークの父親は、ここポートラッシの、グリーンキーパーだった。その環境が、彼にゴルフと馴染む環境を与えた。全米オープン優勝の後、フロリダ州レイクノナに、本拠地を移したマクドウエル。それでも彼は、ポートラッシの自宅を、残している。

それに加え、遠くないハリウッド育ちのマキロイ。これだけの看板が、地元に揃えばR&Aも、アイルランド海を渡らない理由がなくなる。

ましてや2019年。マキロイは30歳になる。競技者として、最も脂が乗る頃。68年ぶりのポートラッシで、地元プロが優勝する可能性は、頗る大きいと言える。それこそ、スポーツビジネスにとって最も大切な要因。大入り満員が期待できる。

ところで、その68年前(現在からでなく、勿論2019年から逆算して)は、第二次大戦の爪痕が、強烈に残っていた頃。何しろ1945年迄、全英オープンも、6年間開催することさえ、出来なかったのだから。

オールドコースで行われた、1946年復興全英オープンは、サム・スニードが優勝。ただしその時2位だった、南アフリカのボビー。ロック。そして追い掛けた豪州のトムソンの時代が続いた。

ポートラッシでの1951年は、その間隙を縫い、マックス・ファルクナー、そして南米のアントニオ・セルダが争い。2打差でファルクナーが優勝した時だった。そしてパーマーの連続優勝(61、62年)を切っ掛けに、ビッグ3(他にニクラスとゲイリー・プレーヤー)が支配する、黄金の60年代が開幕することになる。

全英オープンを中継する、日本のテレビが関心を示すのは、日本人プロの成績だけ。そのため多数の私の知人は、日本の地上波を視ない。そんな国だが、これらの歴史を知ることで、テレビ観戦の楽しみは、間違いなく増す。そうなったら、素晴らしいことである。

その時までに私も、久々にアイルランドを行脚。ポートラッシのリポートも是非、読者に届けたいモノだ。

(Nov.17.2014)